室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉が得意とした水攻めは住民にとっては過酷な戦術だった

水攻めは力の差があることが前提

兵糧攻めや水攻めは、戦力的に差が大きくなければ成功は難しいと言えます。圧倒的な兵力で、兵糧を運ぶ道を閉鎖したり、援軍が来ても城まで行かせない兵力が必要なのです。さらに、兵糧攻めや水攻めにはお金もかなりかかります。兵糧攻めや水攻めには、相手が音を上げるまで包囲をし続けなければならず、大量の兵士の兵糧が必要になるからです。それができた羽柴秀吉は恵まれた武将であったと言えます。

鳥取城の兵糧攻めでは、事前に秀吉は周辺の米などを買い集めて、城が米などを買えないようにしていました。そのため、通常よりも高く米を買ったため、費用はさらに多くかかっています。秀吉は、その資金は商人たちから借りたことで可能になりましたが、返済は毛利方からもらうようにしていたのです。

水攻め、兵糧攻めの抜け穴

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兵糧攻めや水攻めを効果的におこなうためには、蟻の入り込む余地も残さないことが必要です。その点では、兵糧攻めのほうが水攻めよりも抜け穴は大きいと言えます。すなわち、包囲が完全でなければ、支援の兵糧が城内に運び込むことが可能だからです。水攻めの場合は、城の周囲は視界を遮るものは何もなく、兵力に差があれば、兵糧や水を城内に運び込むことは難しいと言えます。

単なる兵糧攻めでは、地形が変化に飛んでいたり、周囲に敵の仲間が多い場合には、なかなか兵糧は底を尽きません。鳥取城は平地にあり、周囲も秀吉の調略で味方も少なくなっていたため、兵糧が底をつくのは早かったのです。しかし、三木城では、周囲の地形が変化に富み、しかも播磨では、黒田官兵衛の元主君であった小寺政職(まさもと)をはじめ、支援する豪族も多くいました。秀吉は、それらの勢力を個別に討ち破ったり、調略していったために落とすのに1年10ヶ月もかかっているのです。すなわち、抜け穴が多いほど城攻めは時間がかかります。

囲まれた石山本願寺がなかなか落ちなかった理由

秀吉の主君であった信長も、大阪の石山本願寺を取り囲みましたが、落とすまで長い時間がかかりました。その間には、有岡城の荒木村重の謀反なども起こっています。長くかかった背景には、他の地域の一向宗徒の本願寺支援があったことと、石山本願寺が大阪湾に面しており、毛利勢が海から兵糧や武器、水などを支援したことがありました。一向宗徒の支援もここからおこなわれたのです。信長は、伊勢の九鬼水軍に命じて鉄甲船と呼ばれる船を作らせ、瀬戸内海の制海権を握ったことで、ようやく石山本願寺は落ちました。

備中高松城の水攻めとは

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現在の岡山市の北区にあった備中高松城の水攻めも凄惨を極めたと言われています。高松城の周囲は水で囲まれ、蟻の入り込む余地もなかったようです。周囲は水に囲まれていますから、毛利方の支援の船はすぐに見つかってしまいますし、船を出すはしけも管理されていました。備中高松城の周りには庭瀬城などの支城が6つありましたが、秀吉は、そのすべてを事前に攻略して、高松城を孤立させたのです。それでも、高松城はなかなか落ちませんでした。

そこで、黒田官兵衛は周囲の地形を調べた上で、水攻めを秀吉に進言したのです。城の周囲にはわずか12日間で堤が作られ、そこに川の水を流し込まれます。そのため、毛利家から、小早川隆景や吉川元春兄弟が援軍に駆けつけましたが、近寄ることができず、城は孤立してしまいました。城内は飢餓に苦しみ、水もない状況でいつ降服してもおかしくない状況になっていたのです。

 秀吉は水攻めでほぼ落ちる寸前の高松城に信長の出陣を所望した

このような絶対的な有利な状況を作った上で、羽柴秀吉は信長の出陣を所望したのです。秀吉は、強気に城主清水宗治の命と中国地方の5国の割譲を毛利側に提案しましたが、さすがに毛利も受けませんでした。

水攻めをおこなう秀吉陣営が捕らえた明智光秀の密使

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そのようなときに、本能寺の変で天下をとったつもりの明智光秀から送られた密使が秀吉軍に捕まったのです。秀吉は信長が亡くなったことを知って泣き崩れますが、軍師の黒田官兵衛は、その情報を周囲に口止めするとともに、毛利に向かう道をすべて人が通れないように監視させました。そして、秀吉に、天下への道が開いたことを告げ、早急に和睦をして中国から引き返すことを進言したのです。

備中高松城の水攻めの結末

秀吉は、蜂須賀小六と黒田官兵衛を使者として毛利方の安国寺恵瓊に遣わして交渉に入らせます。その結果、当初要求の5国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)から3国(備中・美作・伯耆)の割譲に譲歩して交渉をまとめたのです。この時点では、まだ毛利方は本能寺の変を知りませんでした。

そして、秀吉軍は、城主清水宗治の切腹を確認すると一目散に中国から大返しをおこなったのです。毛利方は、あとで事実を知り、吉川元春は追撃を主張しましたが、小早川隆景は盟約をしたものをすぐに破る行為に反対し、結局、秀吉は姫路城まで休憩なしでたどり着きます。そして、織田方の軍勢を集めた秀吉は、山崎の戦いで明智光秀に勝って天下に向けて走り出したのです。

結末というよりは、備中高松城は始まりだったと言えます。

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