孫権との同盟に成功し、赤壁で曹操を破る
荊州の情勢が不安定化したころ、長江下流の呉を支配していた孫権は、劉表の弔問を口実に参謀の一人である魯粛を荊州に派遣し、情報を集めていました。劉備は魯粛と面会、孫権との連携を図るべく軍師の諸葛亮を呉に派遣します。
荊州を制圧した曹操は、呉の孫権に対しても使者を派遣し降伏を迫っていました。張昭ら呉の重臣たちの多くは曹操に降伏するしかないと孫権に説きます。これに対し、軍事を司っていた周瑜や荊州に派遣されていた魯粛は徹底抗戦を主張していました。
呉に赴いた諸葛亮は孫権に劉備との同盟を説きます。孫権が、劉備がなぜ早々に降伏しないのかと尋ねられた諸葛亮は、劉備が漢の皇族で能力もあり、多くの武将が従っているから曹操に降伏しないのだと答えました。孫権は諸葛亮の言葉を聞いて曹操と戦う決意をします。208年、孫権は周瑜に精鋭3万を与え劉備軍とともに赤壁で曹操と決戦し勝利しました。
蜀を平定し天下三分の計を実現するが、関羽・張飛を失って呉に敗北
赤壁の戦いの後、空白状態となった荊州南部を劉備が制圧。劉備は念願の根拠地を手に入れます。荊州南部を根城とした劉備は西の益州を平定し、天下三分の計が実現したかに見えました。しかし、荊州の守備を委ねていた関羽が孫権軍によって殺され、敵討の準備中に張飛も裏切りものによって殺害されると劉備は二人の復讐のため自ら呉に攻め込み、大敗を喫します。
劉備、法正らの進言に従い蜀を手に入れ天下三分の形ができる
赤壁の戦いで敗れた曹操は北に引き上げ、体制の立て直しを図ります。その間、劉備は荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵を制圧し安定した地盤を構築しました。劉琦が死去すると、劉備は荊州の牧(地方長官)に就任。これにより、荊州支配を狙っていた孫権との間で軋轢が生じます。
緊張を緩和するため、孫権は劉備と妹である孫夫人を結婚させ当面の衝突を回避しました。211年、益州の主である劉璋は漢中(益州の北にある地方)で勢力を拡大した五斗米道の教祖である張魯を恐れ、劉備に支援を要請します。劉璋の使者である法正らは劉璋に君主の器がないと考え、劉璋には内緒で劉備に益州を乗っ取ってしまうよう進言。劉備は法正らの提案を採用し、蜀に乗り込みました。
劉備軍は順調に益州攻略を進めましたが、途中の雒(らく)城で劉璋軍の激しい抵抗に遭い、参謀である龐統を失います。それでも、劉備は荊州から諸葛亮らの援軍を得て蜀平定に成功しました。
荊州をめぐる孫権との争いと漢中平定
蜀を手に入れた劉備に対し、孫権は南荊州の支配権を引き渡すよう要求します。赤壁で勝利できたのは孫権軍の活躍が大きく、荊州は孫権が支配すべきだと考えていたからでした。
しかし、劉備は即時の引き渡しを拒否。劉備軍と孫権軍は戦闘状態に入りました。戦いは孫権軍優位に進み、長沙と桂陽を孫権領とすることで和平が成立します。
劉備と孫権が荊州をめぐって争っているころ、曹操は漢中に兵を進め平定しました。劉備は孫権と和平して背後の安全を確保したのち、漢中に出兵します。219年、劉備軍は漢中を守備していた曹操軍の武将夏侯淵を定軍山の戦いで破り、漢中を平定。漢の高祖にならって劉備は漢中王を称しました。
かけがえのない存在だった関羽・張飛の死
荊州の責任者である関羽は勢いに乗じて曹仁が支配する樊(はん)城を攻めました。関羽は樊城への援軍を撃破し、樊城を水攻めして落城寸前まで追い込みます。曹操は参謀の司馬懿らの進言に従い、孫権の江南支配を認めるかわりに関羽の背後を突くように依頼しました。
孫権は呂蒙に命じて関羽の背後を突かせます。曹操軍と孫権軍に挟撃された関羽は戦いに敗れ、益州に逃れようとしました。しかし、途中で孫権軍につかまり養子の関平もろとも斬首されます。関羽の首は曹操に送られ、曹操は丁重に葬りました。
関羽の訃報を聞いた劉備は孫権への復讐を誓い兵を動員。この復讐戦に参戦しようとしていた張飛が部下の裏切りによって殺害されると、いよいよ孫権への憎悪を募らせます。
221年、劉備軍は孫権軍と夷陵で決戦に及びましたが孫権軍の武将である陸遜の火計に敗れ去りました。劉備は白帝城に逃げ込み、その地で生涯を閉じます。
劉備は諸葛亮に息子と蜀の将来を託した
白帝城にとどまっていた劉備は重い病にかかります。首都の成都から諸葛亮らが白帝城に駆け付けました。劉備は諸葛亮に「息子の劉禅が君主にふさわしくないなら、君が国を治めよ」といいますが、諸葛亮は劉禅への忠誠を誓います。後事を託された諸葛亮は、蜀の丞相として劉禅を支え、劉備の死後も漢王朝復興のために戦い続けました。
こちらの記事もおすすめ