三国時代・三国志中国の歴史

あまたの英傑たちを従え蜀を建国した英雄「劉備」の生涯をわかりやすく解説

曹操暗殺計画に参加し、曹操に徐州を追われる

徐州での呂布討伐戦の少し前、曹操は後漢皇帝の献帝を許昌に迎え入れました。献帝は曹操に擁立されていたため、皇帝としての実権は全くありません。そこで、側近の董承に曹操を討てとの密勅を下しました。

董承は曹操打倒のため涼州の武将である馬騰や劉備を仲間に引き入れます。董承の計画は曹操の主治医を仲間に引き込んで曹操を毒殺し、その混乱に乗じて曹操一派を排除しようとするものでした。しかし、計画は事前に漏れて関係者はことごとく処刑されます。

劉備は袁術討伐のため許昌を出発していたので無事でした。劉備は兵を率いて徐州に行くと、徐州刺史を殺害して徐州を制圧。曹操との対決姿勢を強めました。劉備の裏切りに激怒した曹操は徐州に殺到。支えきれないと見た劉備は徐州を捨て、袁紹を頼ります。袁紹が曹操に敗れると、荊州の劉表のもとに落ち延びました。

軍師諸葛亮を得て天下三分の計の実現を目指す

image by PIXTA / 29430984

官渡の戦いで勝利した曹操が中原を制すると、華北に劉備の居場所はなくなってしまいました。劉備は大陸中央部の荊州に落ち延びます。劉備は隆中に住む賢者諸葛孔明のうわさを聞き、彼を三顧の礼で迎えて軍師としました。孔明を迎えた劉備は天下三分の計を実現させるため、荊州・蜀と領土を拡大します。

荊州の劉表のもとで新野に駐屯し、髀に肉がつくのを嘆く

黄河流域では、主導権をめぐって曹操と袁紹が激しく争っていました。200年の官渡の戦いで曹操が勝利すると、袁紹の力は急速に弱体化します。202年に袁紹が病死したのち、曹操は袁紹の子供たちを次々に撃破。207年までに、華北の主要部分を支配下におさめました。

そのころ劉備は荊州を支配していた劉表のもとに身を寄せています。劉表は劉備に新野城を与えて国境を守らせました。このころ、劉表主催の宴会に参加した劉備はトイレに行って帰ってきた後で涙を流しています。劉表がその理由を尋ねると、劉備は「若いころは馬に乗っていたので太もも(髀)の肉は全然ありませんでした。しかし、今、太ももを見ると肉がついています。年を重ねているのに、何も成し遂げていないことに気づき、つい泣いてしまいました。」と答えます。これが、故事成語の髀肉(ひにく)の嘆の由来です。

劉備、諸葛亮の草庵を三度訪れ三顧の礼で軍師に迎える

劉備が新野に駐屯していたころ、劉備は徐庶から諸葛孔明(諸葛亮)についての話を聞きます。興味を持った劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「諸葛亮は呼び出しに応じる人物ではなく、無理に連れてくることはできません」と答えました。

これを聞いた劉備は、諸葛亮のもとを訪れます。一度目・二度目の訪問で劉備は諸葛亮に遭うことができませんでした。それでも諦めきれなかった劉備は三度目の訪問を実行。ようやく、諸葛亮と対面することができました。

諸葛亮は20歳以上も年上で、目上の人物である劉備が何度も会いに来てくれたことに感謝し、劉備の軍師となります。このことから、故事成語の三顧の礼が生まれました。

諸葛亮は劉備に曹操・孫権がまだ治めていない荊州・益州(蜀)を領有することを提案。本拠地を得てから天下統一を図るべきと主張しました。劉備は天下三分の計にそって、行動していきます。

劉備、長坂の戦いに敗れ江夏に逃れる

207年、曹操が遼東遠征に成功し後方の安全を確保すると、翌年には本格的に荊州侵攻を始めます。曹操が荊州に進出しようとしたまさにその時、荊州の支配者劉表がこの世を去りました。

危機的状況であるにもかかわらず、劉表の子供たちは跡継ぎ争いを始めてしまいます。劉表の後を継いだ劉琮は曹操に降伏。しかし、長子の劉琦は劉備とともに曹操と戦うことを決めました。

諸葛亮は混乱に乗じて劉備が劉琮から荊州を奪うべきだと主張しましたが、劉備は断ってしまいます。その後、劉備は江夏に逃れる途中で攻め込んできた曹操軍に追いつかれて長坂で大敗。張飛の活躍でなんとか江夏に逃れた劉備は、孫権と同盟し、曹操に対抗しようとします。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: