運命の会津戦争
松平容保が会津へ戻った後、徳川慶喜は新政府軍と戦争を避けるために江戸を無血開城することを決断。こうして名実とともに江戸幕府は消滅しました。会津藩もこれに追って新政府軍に投降しようとするのですが、なにせ会津藩は八月十八日の政変で長州藩を追い出したり、蛤御門の変で長州藩を朝敵にした張本人。こんな投降許されるはずもなく、新政府軍は会津藩討伐のために東北地方に進軍します。
どんどん降伏していく東北地方の藩。そして新政府軍の総大将板垣退助は会津藩領内に侵攻していわゆる会津戦争が勃発します。最新式の兵器や軍隊を擁していた新政府軍に会津藩軍はどんどん押されていき、白虎隊の悲劇や西郷頼母の壮絶な死などが起こりながら絶望的な籠城戦を強いられることになりました。
もはやどうしようもない松平容保。もはやこれまでとついに9月22日に新政府軍に降伏。
こうして会津藩の戦いは終わりを告げました。
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明治新政府による復讐【会津藩のその後】
降伏した会津藩に待っていたものは非情なものばかりでした。
藩主である松平容保は死罪は前原一誠の嘆願によってなんとか回避されたものの、その身は鳥取藩の預かりとなり実質的な幽閉に処されました。
また、会津藩もその領土をすべて没収。しかし、嘆願もあってか青森県の三戸というところに斗南藩を立てることがなんとか許可されました。
しかし、この三戸の地は一応3万石とはなっているものの、実質的に取れるお米はわずか7000石だったと言われており、会津藩時代とは打って変わって極貧の生活を送るようになります。しかし、会津藩士たちはこの生活に耐え続け1871年の廃藩置県を迎えることになりました。
また、1873年には松平容保は幽閉の身からなんとか解放され、その後は日光東照宮の宮司となることになります。
松平容保からしたら徳川家ゆかりの寺院であるこの日光を守ることで幕府への奉公としたかったのでしょうね。
会津藩の信念は永遠に
残念なことに会津藩は最終的には新政府軍に負けてしまうことになったのですが、会津藩は幕府を守るという信念のもと戦っていました。
もし、会津藩のお膝元である会津若松に観光に行くのであれば会津藩が守ろうとした幕府に想いを馳せるといいかもしれませんね。