幕末日本の歴史江戸時代

会津藩の歴史と初代藩主「保科正之」を解説!〜徳川家に最も信頼されていた藩と悲劇〜

会津藩の指標となった十五の家訓

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こうして会津藩をどんどん整えていった保科正之でしたが、彼は徳川家光に『宗家をよろしく頼む』と頼まれたことを受けて1668年に会津家家訓十五箇条という家訓を定めました。

これは一番最初の重要な部分に「会津藩たるは将軍家を守護する立場であり、藩主が裏切ることがあればそいつは会津藩主ではないため家臣たちは従わなくても良い」という徳川家を守られなければ会津藩ではないというかなり強硬な立場を保つようにとされてきました。

もちろん、会津藩主はこの教えを代々受け継いでいき、将軍家を補佐していくことになるのですが、これが幕末になると逆に会津藩をどんどん苦境の立場へと変えていくのでした。

幕末期における会津藩

こうして、保科正之によって立藩された会津藩。その後代々将軍家の補佐をしていくことになるのですが、1850年代に突入していくと会津藩は幕府をなんとしてでも守る佐幕派の急先鋒としての役割を果たしていきます。

松平容保の治世

保科正之が会津藩を立藩してから約200年後、この時美濃の高須藩というところから会津藩へと養子に出された人物がいました。その人が今回のもう1人の主人公松平容保だったのです。

松平容保は1852年に会津藩主に就任することになったのですが、その翌年にペリーが来航したり、24歳の時に桜田門外の変が起こった時に水戸藩の立場について朝廷に奔走したりするなど幕府の動乱期に突入して苦労を強いられるようになったのでした。

京都守護職への就任

こうして幕政に関与していく松平容保でしたが、1862年に松平容保は今後の人生を大きく左右するとある役職に就くことになります。それがいわゆる京都守護職という役職でした。

京都守護職というのは簡単に言えばこれまで置かれていた京都所司代の上に位置している役職で、京都一帯の警備や西国の大名の監視を司るかなり重大な役職だったのです。

会津藩からしたら領国からかなり離れている京都に滞在するのは藩の財政を悪化させるかもしれません。会津藩の重臣たちはこの京都守護職に就任することを拒否すべきという案が出されましたが、そこで発動されるのが保科正之が残した家訓です。この当時幕政に重大な役割を果たしていた松平春嶽は松平容保や会津藩士に対してこの保科正之が残した家訓を引き合いに出されて「幕府のために働くのが会津藩ではないのか?」と言われるようになります。

こう言われたらどうしようもない松平容保ですからこの幕府の依頼を受け、京都に上り京都守護職に就任しました。

一会桑体制と八月十八日の政変

さて色々あって京都守護職となった松平容保でしたが、この頃京都では尊王攘夷を唱える長州藩の藩士たちが天誅という形で暗殺を行なったりするなど幕府からしたら邪魔な存在でした。

そこで松平容保は新撰組と呼ばれる京都守護職の下に位置する今で言うところの警察みたいな集団を使ってどんどん尊王攘夷派の藩士たちを検挙していきました。

さらに、松平容保はそれだけではなくそもそも長州藩の藩士たちを京都から追放するという計画も立て始め、この頃仲が良かった薩摩藩と連携して長州藩の藩士と倒幕派の公卿を追放。いわゆる八月十八日の政変と呼ばれるクーデターを起こして京都の治安を維持していました。

このような松平容保の活躍は幕府だけではなく、当時天皇として在位していた孝明天皇からも賞賛を受けて日本では異例である天皇直筆の手紙も貰い受けるという最大級の名誉を賜れます。

さらに、京都の警備を強化すべくこの頃に入ると一橋慶喜と桑名藩主松平定敬とともに一会桑体制を確立。幕府から独立したような権限を持つようになります。

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