アメリカの歴史独立後

〜冷戦の悲劇〜超大国の戦の舞台となった3つの「代理戦争」

ベトナム戦争

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朝鮮での戦争は終結して1950年代後半になるとキューバ危機を経てソ連とアメリカの関係は徐々に改善されていく様になりました。

しかし、まだ冷戦自体は継続しており、また今度はアジアの南側に位置しているベトナムでいざこざが起こり始めていました。次はそんなベトナムでの代理戦争であったベトナム戦争について見ていきたいと思います。

ベトナムの共産化

第二次世界大戦後日本に支配されていたインドシナ半島の国ベトナムはホー・チ・ミンをリーダーとしたベトナム民主共和国を成立させました。

しかし、この頃をフランスが拒否。かつてインドシナ半島を植民地にしていたフランスはベトナムに侵攻。第一次インドシナ戦争を引き起こしてしまいました。

こうして共産主義化したベトナムとフランスの戦争となったのですが、このことを受けて1950年にホー・チ・ミンは共産主義国家に対して国家承認をするように声明を出して、中華人民共和国が国家承認。さらに中国の仲介もあってソ連と国家承認するまでとなりました。

とくに中国はベトナムに多大なる援助を行い第一次インドシナ戦争を戦っているベトナムに対して資金援助を行ったりしています。

ベトナムの南北分裂

こうして中国の支援を受けたベトナムは勢いづいて南へと侵攻。1953年にはティエンビェンフーの戦いでベトナム側が勝利したことをきっかけにジュネーブで講和会議が開かれる様になりました。

これによってフランスのインドシナ半島からの撤退やベトナムの国家承認などが決定しましたが、アメリカやイギリスはこれ以上共産主義国家を増やすことはなんとしてでも避けたかった。

そこで南側に反共産主義政府を樹立させて北緯17度で南北に分断することとなりました。

こうしてベトナムは朝鮮半島と同じ分断国家となり、その体制のままベトナム戦争へと繋がることになりました。

ベトナム戦争の開始とアメリカの全面的介入

こうして南にはアメリカやイギリスが建てた南ベトナム、北にはソ連や中国が援助している北ベトナムが成立。もちろんこの二つが仲良く共存できるはずもなく度々軍事衝突が起こるようになりました。

1960年には北ベトナムは南ベトナムを解放するために南ベトナム解放戦線(ベトコン)を設立。南ベトナムに侵攻してベトナムを統一しようと考えます。こうして緊張がピークに達した両ベトナムはついに戦争状態に突入。

1961年にはアメリカが南ベトナムに対して軍隊を派遣し始め南ベトナムに対して部分的に介入するようになり、北ベトナムがアメリカの駆逐艦を攻撃したとされるトンキン湾事件が起こると軍隊をそのまま派遣するようになりました。

こうしてベトナム戦争はソ連や中国の援助を受けている北ベトナムと南ベトナム&アメリカという構図になったのです。

アメリカによる北爆アメリカ軍の上陸

こうしてベトナム戦争が始まりましたが、アメリカは北ベトナムのゲリラ戦法に苦しめられるようになります。そこでアメリカはゲリラ戦法をできなくなるようにするために北ベトナムのジャングルを丸ごと焼き払う戦法を取るようになりました。これをいわゆる北爆というのですが、アメリカは1965年から1968年の間に223万トンの爆弾を北ベトナムに投下しました。

しかし、北ベトナムの底力によってなかなか降伏することはなく逆にテト攻勢によって形勢が逆転する始末。69年にはアメリカ軍の派兵人数は54万人にも膨れ上がりましたが、全く戦果をあげられないアメリカ軍に業を煮やしたアメリカ国民はベトナム戦争の反戦デモを開始。このデモはアメリカ全土に波及してジョンソン大統領はベトナムからの撤退をついに決定しました。

アメリカの撤退、そしてベトナム統一

こうしてアメリカ軍の撤退は決定されましたが、この決定によってすぐに撤退することはなくなかなかタイミングが掴めない状態にいました。全く戦果をあげられず逆に攻め込まれてしまう事実・北爆や枯葉剤投与によって国際的避難を集めている事実・アメリカ国内での反戦デモ、さらにこのベトナム戦争によって大量に使われた戦費がアメリカ経済を圧迫するようになりアメリカの素早い撤退が求められるようになりました。

そしてついに1973年にアメリカ軍はベトナムから全面的撤退。これを受けて北ベトナム軍は南ベトナムの首都であるサイゴンに向かって総攻撃を開始。1975年に陥落して20年にも及ぶベトナム戦争は北ベトナムがベトナムを統一する形で幕を下ろしました。

北ベトナムの死者は117万人、南ベトナム&アメリカ軍は28万人民間人は458万人という悲惨な結果を出してベトナムはついに統一されたのです。

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