男女普通選挙が実現し、教育が民主化された
選挙制度の改定や政党の復活もGHQの指示によるものでした。1945年12月、衆議院議員選挙法が改正され、選挙権が20歳以上の男女に与えられます。大きな変化は選挙権が5歳下がったことと、女性の参政権が認められたことの2点。
1946年4月、新しい選挙法に基づいて衆議院議員総選挙の投票が実施されました。戦前の二大政党の流れをくむ自由党と進歩党が第一党・第二党を占めます。のちに、自由党や進歩党出身の議員たちが現在の自民党をつくりました。第三党以下は中立派の協同党や左派の社会党、共産党などです。
また、GHQは教育の民主化も指示。GHQの指示で軍国主義的な教育関係者を追放されました。戦前の教育で大きな力を持っていた教育勅語は廃止され、教育基本法が制定されます。軍国主義の考え方を教育から排除しようとしました。さらに、戦前に厳しく制限されていた労働組合も復活します。
財閥解体や農地改革で経済力の独占排除が図られた
GHQは財閥や大地主が軍国主義の基盤であったと考え、それらの財閥解体に乗り出します。財閥とは中心となる持株会社が多くの系列企業を支配する巨大企業群のことです。
三井・三菱・住友・安田の4大財閥や昭和期に成立した新興財閥などは、その経済力で軍国主義を支える基礎になっていたとGHQは考えました。GHQの指示により、政府は独占禁止法や過度経済力集中排除法などを制定し、巨大財閥を解体しました。
また、地方の大地主が多数の小作人を支配する寄生地主制も軍国主義の支持基盤だと考えたGHQは大地主の土地を強制的に買い上げ、小作人に安価で売り渡す政策を日本政府に実行させます。
政府は自作農創設特別措置法を制定し、GHQの要求に答え、寄生地主制を解体しました。こうした一連の農地改革により、戦前から日本に存在していた大地主による寄生地主制が崩壊します。
GHQの指示により日本国憲法が制定された
日本が受諾したポツダム宣言には、「平和的傾向を有する責任ある政府」という項目がありました。マッカーサーは近衛文麿との会談で、憲法改正の必要性を説きます。幣原喜重郎が総理大臣となった後、マッカーサーは幣原に対して憲法の自由主義化を指令しました。
これを受けて幣原内閣は松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、改正作業に乗り出します。1946年2月、松本は天皇の統治権を認める松本案をGHQに提示しましたが、GHQは拒否。2月13日、GHQの民生局長ホイットニーがマッカーサーのメモをもとに草案を作成し日本政府に提示します。
日本政府はマッカーサー草案にそって象徴天皇制などを定めた憲法改正案を公表しました。日本国憲法は11月3日に交付、翌年5月3日に施行されます。日本国憲法の三つの原則である国民主権・基本的人権の尊重・平和主義はマッカーサー草案の段階で含まれていました。
冷戦の激化とともに、大きく変化したGHQの占領政策
GHQの占領政策は非軍事化と民主化を徹底的に行い、日本が再びアメリカなどの脅威にならないようにすることを目的として行われてきました。しかし、冷戦がはじまりアジア各地に共産主義が広まるとアメリカは日本を共産主義の防壁にしようと考え、占領政策を転換します。
アメリカとソ連による冷戦時代の始まり
第二次世界大戦終了直後から、アメリカとソ連の対立は激化していきました。ソビエト連邦の指導者スターリンは、社会主義勢力の拡大を積極的に推し進めます。その結果、東ヨーロッパ諸国や中国共産党などがソビエト側の陣営に属しました。
対してアメリカは、西ヨーロッパ諸国の団結を図るためマーシャルプランを実施。西ヨーロッパの経済復興を急ぎます。また、北大西洋条約機構(NATO)を結成し、ソビエト率いる東側諸国に備えました。こうした、アメリカによるソビエト封じ込め政策のことをトルーマン=ドクトリンといいます。
1949年、ソ連が原子爆弾を保有し軍事的にもアメリカの脅威となるとアメリカ・ソ連による戦火を交えない対立、いわゆる冷戦が本格化。アメリカ国内では、ソ連に対する恐れから共産主義者とおもわれた人々がつるし上げられる赤狩りの嵐が吹き荒れました。
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アジアで拡大する共産主義勢力
第二次世界大戦後、最も激しい争いが起きていたのは中国でした。アメリカの支援を受け、中国代表と認められていたのが国民党を率いる蒋介石です。蒋介石は根っからの反共主義者でした。日本が戦争に敗れ中国から去った以上、共産党との連携を継続する必要はないと考えた蒋介石は共産党との戦いを再開します。
一方、中国共産党の指導者である毛沢東はソ連の支援の下、粘り強く戦いを継続しました。当初は、装備・兵力に優れる国民党軍が優勢でしたが、次第に毛沢東率いる共産党軍が各地で国民党軍を撃破。耐えきれなくなった蒋介石は台湾へと逃れます。
中国本土を制圧した毛沢東は1949年に中華人民共和国の成立を宣言しました。アメリカは共産主義勢力がどんどん膨張し、日本や東南アジアを飲み込むのではないかと恐れたのです。