反共産主義の防壁としてアメリカは日本に期待した
1948年、アメリカのロイヤル陸軍長官は日本の過度の弱体化を進めるGHQの政策を批判します。その上で、日本を弱めるよりも日本の経済復興や自立を助け、共産主義拡大の防壁にするべきだと主張しました。
1948年、朝鮮半島でソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国とアメリカが支援する大韓民国がそれぞれ独立すると、朝鮮半島での緊張が高まります。こうした状況変化を受け、GHQは占領政策は政治の安定や経済の復興、再軍備などを目指す方向へと大きく転換しました。
労働運動に対しても、GHQは抑圧的な態度をとるようになります。GHQによる労働運動への抑圧が二・一ゼネストの中止命令です。労働運動が激しくなり、社会主義の動きが日本で加速するのを警戒したためでした。
吉田内閣とGHQの駆け引き
1948年10月から政権を担っていた自由党の吉田茂はGHQと議論を重ね、日本独立の道を探ります。吉田はあまりに性急に独立を急ぐと、連合国から領土割譲や多額の賠償を求められるかもしれないと懸念しました。そこで、急いで独立せずGHQの指令に従いつつ、講和・独立のチャンスを狙います。
1950年に朝鮮戦争が起きるとアメリカは日本に再軍備を要求しました。吉田は再軍備が経済復興の妨げになると考え、憲法9条などを持ち出しながら、アメリカと交渉を継続。その結果、最小限の抑止力として警察予備隊を発足させることで折り合いをつけることに成功します。
アメリカとの妥協を成り立たせた吉田は、1951年のサンフランシスコ平和条約締結にこぎつけ、日本は独立を回復することができました。
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GHQの占領統治は戦後日本に大きな影響を与えた
GHQは1945年から1952年にかけて日本を占領・統治しました。その間、大日本帝国憲法が日本国憲法へと変わり、天皇も現人神から象徴へと役割をかえます。明治維新以来ともいえる大規模な国家の改造が行われたといってもいいでしょう。GHQに属していた部隊は日米安全保障条約に基づき、引き続き日本に駐留する在日米軍となります。その意味では、GHQの影響は今も続いているといってよいかもしれませんね。