城があるのが大きな分かれ道
まずは藩の大きさに関するランク付けから見ていきましょう。
江戸時代の藩は国を丸ごと1つ治めていた国持ち大名を始め、丸ごとは治めていないけどそれに相応しているよねレベルの大身国持ち大名、準国主大名、城を持っている城主大名、住んでいるところが陣屋だけどまぁ城主でいいんじゃない?レベルの城主格大名、城はなくて代わりに陣屋と呼ばれるところを本拠地としていた無城大名(陣屋大名)に分かれていました。
国主レベルになると15万石以上は当たり前レベルの世界になるのですが、陣屋大名は本当に一万石あるのがやっとのレベルだったそうでその差は歴然だったそうです。
親藩・譜代・外様大名について
江戸幕府は大名を親藩・譜代・外様とおおまかに3つに区分していました。
親藩というのは簡単に言えば徳川将軍家と親戚関係にある家柄の藩のことを指しています。
将軍家と同じ徳川と名乗ることができた御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)などが親藩の代表例として有名ですね。
譜代というのは簡単に言えば幕府を起こす以前の徳川家の家臣になっていたか、従っていた大名のことを指しました。
徳川四天王呼ばれた井伊家、酒井家、榊原家、本多家の子孫が治めている藩は大体この譜代に当たります。井伊家が治めていた彦根藩は井伊直弼の出身だけあって有名ですね。
外様というのは関ヶ原の戦い以降に徳川家に従った大名のことを指し、ここにはかつて徳川家に反抗した西軍の大名なども含まれています。
のちに倒幕の中心になる薩摩藩、長州藩や加賀藩、福岡藩などが有名ですね。
こうしてみると外様の方が領地も大きく、譜代よりも優遇されていると思いがちですが、これは元々豊臣政権において徳川家と同じ立場にいた大名の子孫が治めていることがほとんどであり、一方の譜代の方はその戦国時代における一大名に過ぎなかった徳川家の家臣という立場であったため関ヶ原の戦いで徳川家が天下を取ったとしても大きな領地を与えることができなかったという事情があったからでした。
しかし、幕府の政治に関われるのは譜代か親藩のみであり、外様は幕政から排除された上に幕府の領地のインフラ整備(普請)を押し付けられたりするなど幕府は徹底的に外様大名の勢力をそぎ落としていました。
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大名の格式である伺候席について
さて、おおまかにな藩のタイプを見ていきましたが、この藩を治める大名には細かなランク付けがなされており、その中でも特に重要視されたのが伺候席と呼ばれるものでした。
伺候席というのは将軍に会う順番や控え席の事であり、一番上から大廊下、大広間、溜詰、帝鑑間、柳間という風に分かれていたのです。
一番上の大廊下には本当に御三家やのちに作られる御三卿レベルの大名しか座ることが許されず、外様大名は加賀藩103万石を治める前田家しか認められたいものでした。
基本的に皆さんが知っているぐらいの藩主たちは大広間という2番目に格が高い所に座っていたのです。
武家官位について
大名のランクを表すものとしてかつて朝廷で働く人のランクとして使われていた官位も使われるようになります。江戸時代に入るとこれまで武士と公家が併用していた官位を公家と武士に分離させ武家官位というものを創始しました。
元々官位は朝廷から送られるものなんですが、この武家官位は将軍から送られる決まりとなっており、上に書いた大名の格式や藩のタイプに分けて与えられていました。
例えば藩の中でもとくに重要である御三家の尾張徳川家、紀州徳川家は権大納言、水戸徳川家は権中納言、加賀前田家は参議などなど石高が高い家柄は高い位を与えられていることがわかりますね。
また、官位に対してもいろいろ細かな決まりがあり、国持大名以外の家は自分の地元の官位を名乗ってはいけないこととなっていました。
例えば陸奥国にある会津松平家の場合ば陸奥守とは名乗らず、肥後守と名乗っていました。なぜならこの陸奥守を名乗っていたのは会津松平家ではなく、国持大名の伊達家。国持大名ではなかったから名乗れなかったのですね。