中国の歴史中華人民共和国

中華人民共和国の黒歴史「文化大革命」をわかりやすく解説

林彪事件

文化大革命において実権派を追い落とした林彪でしたが、いざ、実権派を追い落としたとなると毛沢東に煙たがれる存在となってしまいます。

また、林彪が国家主席の廃止に反対したことによって毛沢東から権力を狙っていると判断されるようになってしまい、両者の対立は避けられないものとなってしまいました。

こうなると待ち受けているのは粛清というオチです。林彪はこれだけはなんとしてでも避けようと動きだして林彪の息子である林立果と共に毛沢東を暗殺して、ソ連に亡命するという計画を立てて、実行に移そうとしました。

しかし、これは事前に計画が漏れてしまい失敗。万事休すの林彪はソ連に亡命するために飛行機で脱出を試みます。

でも、この亡命中に乗り込んだ飛行機が墜落。林彪含む乗り込んでいた人全員が亡くなってしまいました。

ちなみに、この飛行機の墜落には中国よる対空砲の砲撃によるものだったり、側近同士の揉め事によって発砲された銃弾によって墜落したなどいろんな説があります。

毛沢東の死去と四人組の逮捕による終結

こうして邪魔者をことごとく排除していき、自身の権力を確固たるものとした毛沢東でしたが、流石に年齢には勝つことができず、1976年に亡くなってしまいました。

跡を継いだ華国鋒はこれまで毛沢東を支えて文化大革命を指導してきた妻である江青を始め4人を逮捕。江青を始めほとんどが死刑判決を受けて文化大革命は中国に深い傷跡を残したのちに終結したのでした。

その後の中華人民共和国

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文化大革命が終わったのち、中国ではこれまで紅衛兵によって失脚させられていた鄧小平が代わりに中国の政治を動かしていきます。

鄧小平は亡き劉少奇が行おうとした市場経済の導入を行い、中国を社会主義国家でありながら資本主義的要素を組み合わせた社会主義市場経済体制の整備を行うことになったのでした。その結果中国は文化大革命の頃からは考えられないほどの成長を遂げるようになり、最終的にはGDPが世界第2位となるほど国際社会の中で活躍するようになりました。

1980年、中国共産党はこれまで行われていた文化大革命を中国の多大なる過ちだと正式に発表。文化大革命の存在を否定して、謝罪したのでした。しかし、文化大革命の当事者である毛沢東については建国の父である以上あまり批判はできず『功績7分、過ち3分』という評価を下しています。

このように文化大革命は今の中国の反面教師として強く歴史の中で刻まれるようになったのでした。

文革は社会主義の闇部分が現れた革命であった

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文化大革命は天安門事件のように中国ではあまり触れられることがない話題としてタブー視されてはおらず、その革命は中国の負の遺産として語り継がれていくようになります。

実は反面教師という言葉を残したのは毛沢東。毛沢東が起こしたこの政策は本当に反面教師として扱われるようになるとは思いもしなかったでしょうね。

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