中国の歴史中華人民共和国

中華人民共和国の黒歴史「文化大革命」をわかりやすく解説

被害が拡大する運動

こうして、実権派の官僚達は紅衛兵によって迫害を受けてしまいことごとく失脚に追い込まれてしまいましたが、紅衛兵はこの実権派の迫害だけでは飽き足らないようになり、その矛先を民衆にも向けるようになります。

例えば知識人や資産を持っていた人に対しては革命の邪魔という形の黒五類という風に言われるようになってしまい、紅衛兵から資産を没収されたり無理矢理辺境の地に移住させられたりするなど人権を無視した行為を行い、挙げ句の果てには北京市長など権力者達を無理矢理引きずり出し民衆の目の前で吊るし上げ。三角帽子をかぶせて罵倒された後リンチを受けるなどその動きは苛烈なものとなっていきます。

さらには社会主義を信奉しているだけあって宗教にも敵対心を向けていたそうで、中国で発展していた仏教や儒教などを徹底的に破壊。

儒教は批林批孔運動などによって完全な悪とされ、仏教は寺院が破壊されたり、歴史ある仏像が溶かされたりするなどこれまで築き上げてきた中国四千年の歴史をわずか20年で完璧に破壊したのでした。

世界に影響を与えた文化大革命

文化大革命は今でこそ中国の黒歴史としての扱いを受けていますが、文化大革命が起こっていた1960年代後半は毛沢東という人はキューバのチェ・ゲバラと並んで資本主義を打倒した偉人として扱われていました。

そのため、文化大革命も権力によって追い落とされた毛沢東が権力打倒を掲げて民衆達とともに立ち上がったという形で海外に伝わるようになり、一躍毛沢東は半植民地運動や反米反英運動の道しるべとなるようになります。

また、この時期はベトナム戦争に反対していたヒッピーや、日本における学生運動など紅衛兵のように若者が権力者に歯向い暴走するということもあったのです。

しかし、彼らは中国で起こっている悲劇を耳にすることはありませんでした。何故ならそれを伝えるべきジャーナリストが全員殺害されたのですから。

大混乱の中国

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こうして文化大革命は加熱していきますが、この運動は1970年になると正義なき暴走へと変貌を遂げ、毛沢東ですらコントロール出来なくなるほど暴徒化して行くようになります。

次は1970年代の文化大革命の動きを見ていきましょう。

歯止めが効かなくなった文化大革命

こうして中国で暴れ回るようになった紅衛兵達ですが、毛沢東は権力さえ手に入れれば別にどうでも良かったので、この中国を大混乱に陥れている紅衛兵に対してだんだん嫌気を感じ始めるようになります。

そこで毛沢東は紅衛兵を北京などの都市部からいなくするために1968年から上山下郷運動と呼ばれる運動を奨励するようになりました

この運動はどういうものだったのかというと、若者に対して革命の偉大さを知るために田舎に移住するというもの。

まぁ、これは単なる表の顔で本当の目的は邪魔な紅衛兵を田舎に飛ばしたというだけなんですけどね。

この結果、紅衛兵は徐々に減少。残ったのは紅衛兵によって破壊された教育制度による識字率の低下や、中国の発展の遅れだけでした。

国際化する中国

1970年代に入ると毛沢東もこのままでは中国は潰れると思い始め、外交による権威の維持を図るようになります。

中国は上にも書いた通りソ連と仲が悪く、これが原因で大躍進政策を行う理由の一つになったのですが、毛沢東は当時ベトナム戦争の泥沼化によって嫌気がさしていたアメリカに目をつけて、当時の大統領であるニクソン大統領に急接近。いわゆるニクソン大統領の電撃訪中などのニクソンショックを引き起こし、ソ連を始め世界を驚かせました。

また、毛沢東は1937年の日中戦争から断交していた日本とも急接近。田中角栄首相の訪中によって日中国交正常化がなされて、国際社会に復帰したのでした。

これが決定的な理由となり、中華人民共和国はアルバニア決議にてこれまで台湾に逃れた中華民国が持っていた中国の代表権を獲得。

文化大革命はこれによって沈静化していくようになったのでした。

文化大革命の終結

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こうして紅衛兵を追放したり、西側諸国との関係を改善させたりするなど文化大革命を沈静化させていきましたが、実質的な終結を見るのは毛沢東の死を待たなくてはいけませんでした。

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