関白が地方に下向し、そのまま戦国大名となる【土佐中村】
応仁の乱が勃発した頃、前関白の一条教房は戦火を避けて領地があった土佐国幡多郡中村(現在の高知県四万十市)へ下向しました。ふつう上級公家は常に京都に居を構えて領地へ赴くことなど皆無だったのですが、他に行くあてもなかったために致し方なく土佐の片田舎へ向かったのです。
ところが、前関白が下向してきたということで地元の田舎侍たちは狂喜乱舞。力を失った公家といっても、高い位と名前さえあれば田舎ではまだまだ通用したのです。次男の房家の頃には、その高い権威をもって土佐一円の国人たちを支配し、小京都とも呼ぶべき街並みを中村に築き上げたのでした。まさに土佐の経済と文化の中心地ともいえる存在だったのですね。現在も残る四万十市立東山小学校や四万十市奥鴨川、口鴨川などの地名は、京都の「東山」や「鴨川」を懐かしんで名づけられたといいます。
また一条氏は日明貿易でも財を成し、しきりに隣国伊予(現在の愛媛県)へも兵を出して戦国大名化していきました。かといって公家本来の責任も忘れていたわけではなく、歴代当主はたびたび京都へ上っては政務を行ったり朝廷への顔つなぎをしていたそう。しかし、同じ土佐にあって勃興してきた長宗我部氏の勢いは防ぎようがなく、やがて一条氏の中村支配も終焉を迎えたのでした。
日本文化の源流となった東山文化
質素で目立たないけれども、どこか味わいがある。それはインテリアや家具、食器選びなどにも共通しますよね。それは日本伝統の文化にも共通していて、意外と日本人の意識の根底に流れている精神や観念というものは「見た目ではなく本質を求める」ことに通ずるのだと思います。例えば金閣は外国人観光客に大人気だけれども、「銀閣のほうが好き」という日本人もけっこう多いことが、それを如実に表していますよね。金閣と銀閣。住むとしたらどちらの方が落ち着けそうですか?と問われれば、おのずと答えは決まってくるのでは。
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