侘びと寂びで構成された独特の文化
華麗で洗練された3代将軍足利義満時代の北山文化とは違い、東山文化はどちらかというと日本文化の源流ともいえる存在だといえるでしょう。今の日本の伝統文化にも相通ずる奥ゆかしさや数寄の精神が根底にあって、一見すると質素で素朴なものでありながら、その中に何にも替え難い価値を見出すという観念は、まさに日本独特なものだといえるかも知れません。
為政者に権力があり財力があれば、足利義満の時代や、後年の安土桃山文化のように、壮麗で豪奢な建築物や工芸品などが作られもしたでしょうが、義政はじめ貴族や文化人たちに財力がなかったこの時代、限られた枠組みの中で【美の追求】を行うしかないわけで。自然に物事の価値観というものは上辺(うわべ)のものではなく、より本質的なものを見極めようという動きになることは必然的だったのではないでしょうか。
いくら金をかけて豪華なものを作ったとしても、それは決して本質的なものではなく、たとえ河原に流れ着いた何の変哲もない流木であっても、存在する意味がそこにあれば価値のあるものとなる。そういった考え方がこの時代の文化の特徴だったのです。そして100年後、歴史の表舞台に登場した千利休や古田織部のように、侘びと寂びを追い求め昇華させた一級の文化人を輩出することになったのでした。
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京都の地形と枯山水
東山文化を代表する芸術として枯山水が特徴的な庭園が挙げられるでしょう。現在こそ日本庭園の代表的な様式の一つとなっていますが、【侘びと寂びを追求した東山文化】とそして【京都の地形】が大いに関連しているのです。
本来なら水が流れているはずの場所に、あえて石や砂を敷き詰め、大きな岩を効果的に配置することで川の流れを表現した手法は、抽象的な美と奥ゆかしさが相まった日本独特な技法だといえるでしょう。また一般的な庭園のように初期投資やランニングコストが少なくて済み、あえて費用を掛けずに表現できるため、そういった部分もこの時代の特徴なのかも知れません。
このような枯山水の庭がが京都で発達した理由があるのです。水や川に見立てて敷き詰める白い砂のことを真砂(まさ)と呼びますが、実は京都では真砂が比較的手に入りやすい環境にありました。京都の東には【比叡山の山塊】と【大文字山】がそびえていますが、元々は同じ山だったと考えられています。
マグマの造山活動によって隆起した山は、マグマと接触している地中深くの部分が変質して硬いホルンフェルスという地質に変化。やがて時間が経ち、風化し侵食されて柔らかい花崗岩が流れ出した結果、硬いホルンフェルスのみが残って二つのピークを形成したというわけなのです。
花崗岩は元々柔らかくもろいため、簡単に削られて川の流れで下流へと運ばれていきます。黒い部分である黒雲母のほうが比重が重いので、白い部分の白雲母が先にどんどん流れていくために取り出しやすくなるのです。この白雲母が枯山水の庭で使われているということなのですね。比叡山の麓に源を発する高瀬川は、やがて鴨川と合流し、京都の街を南北に貫きますが、この高瀬川~鴨川のラインの近くに代表的な枯山水庭園が点在していることに注目ですね。
全国へ伝わっていく東山文化
戦乱の時代にあっても、京都は文化の中心地であり続けました。しかし、洗練された文化の担い手であった公家や文化人たちが兵火によって住む屋敷を焼け出され、領地を奪われるなどして生活基盤を失うようになると、彼らは伝手を頼ったり庇護を求めるために地方へ下向するようになりました。やがてそれが文化の伝播という形で地方へ広まっていくことになったのです。
洗練された京文化を享受した西の京【山口】
周防・長門(現在の山口県)を治めていた戦国大名大内氏は、京都と非常によく似た町割りを行い、倭寇の取り締まりや日明貿易、石見銀山からの銀産出などにより、莫大な財力を誇っていました。応仁の乱で生活基盤を失った公家や文化人の保護にも熱心だったといいます。山口は西日本で最も栄えた都市の一つであり、東山文化と大陸文化が融合したエキゾチックな街だったといえるでしょう。
山口へはるばるやって来たのは、内大臣の三条西実隆、同じく内大臣の三条公敦、連歌の第一人者宗祇、そして水墨画家の雪舟たちでした。また、管領細川氏によって都を追われた将軍足利義稙までもが大内氏を頼り、荒廃した京都をよそに大内文化と呼ばれる一大文化圏を築き上げたのでした。
1551年、当主の大内義隆が家臣に反逆され、やがて街も戦火を蒙ることになり、西の京と呼ばれた文化都市は衰退していきました。しかし現在でも瑠璃光寺や古熊神社など大内文化の遺構を垣間見ることができるのです。
戦後になってから発見された中世の文化都市【一乗谷】
越前(現在の福井県)に蟠踞していた戦国大名朝倉氏の本拠が一乗谷でした。福井市から10キロほど山へ分け入った谷筋にあり、朝倉氏が滅んでのち埋もれ、昭和42年に発掘されるまで幻の都市として伝説となっていたのです。
戦乱の京都を逃れて越前へ下向してきた公家や僧たちは朝倉氏に庇護を求めました。当時の朝倉氏は財力も相当なもので、日本海ルートの海運を抑え、山奥の一乗谷にまで「一乗の入り江」と呼ばれる港湾施設を設けて、一乗谷を物流や政治、文化の中心地としていたのです。発掘調査の結果、この一乗谷には居館や庭園、武家屋敷や町家、寺院などが一体化して残っており、往時の栄華を偲ばせていますね。
ここにやって来たのは、右大臣三条公頼、大納言の飛鳥井雅綱や一条兼良、高僧の大覚寺義俊や月舟、文化人では当代随一の漢学者清原宣賢などが知られています。最期の足利将軍義昭も一時、一乗谷を訪れていました。その影響で朝倉氏の家臣にも教養に優れた者が多かったそうです。