安土桃山時代日本の歴史江戸時代

すべてを兼ね備えたプリンセス「千姫」のドラマチックな生涯をわかりやすく解説

江戸に戻り、出家する

夫も、跡継ぎとなるはずの息子までもなくした千姫には、本多家にとどまる理由がありませんでした。そこで彼女は娘・勝姫を連れ、実家である江戸に戻ることにしたのです。そして、30歳になるやならずやの年齢で出家して「天樹院(てんじゅいん)」と号し、俗世を離れることに決めました。

まだ若いですし、彼女の血筋や美貌をもってすればいくらでも再婚の道はあったと思いますが、二度までも夫と悲しい別れをした彼女にとっては、三度目はもはや選択肢にはなかったのでしょう。

娘たちを気遣う母としての姿

江戸での暮らしに不自由はありませんでした。もともと祖父・家康や父・秀忠からは溺愛されており、弟である将軍・徳川家光からも慕われていた千姫。彼女を気遣う人々は大勢いたのです。

江戸に戻ってから2年後、娘の勝姫は嫁ぎます。ひとりになった千姫は、娘の身を心配して何度も書状を送っており、愛情深い母親としての顔を残していますよ。

また、妾腹の子ながら大坂城から連れ出し、助命を嘆願した養女・天秀尼(てんしゅうに)に対しても協力を惜しみませんでした。

天秀尼は鎌倉の慶長寺(けいちょうじ)の住職となっていましたが、そこの伽藍の再建に惜しみない援助をしています。また、縁切り寺として有名なこの寺に逃げてきた武士の妻を天秀尼がかくまった折には、その助命を手助けしたとも言われているんですよ。

実の子でなくても、かつての夫の子ならば自分の子でもある…そう考えていたのでしょう。

家光の子を養育

正保元(1644)年、千姫は弟・家光の子供を預かり、養育することになりました。その子は家光の三男・綱重(つなしげ)。後に「甲府宰相」と呼ばれ、人望篤い人物に成長することとなりましたが、その陰には千姫の教育があったわけです。

綱重の成長を見守りながら人生の後半を過ごした千姫は、寛文6(1666)年、70歳で亡くなりました。

全国各地に彼女ゆかりの地が存在しており、イベントも開催されています。彼女が魅力ある女性であったことの証明と言えるでしょう。

 

悲劇を乗り越え、強く生きた千姫

image by PIXTA / 13896490

夫との二度の死別や息子の早逝など、千姫の人生には常に悲劇がつきまといました。しかし彼女はそれにくじけることなく、気丈に生き続けた女性です。美しさと聡明さを併せ持った、まさに徳川家のプリンセスだったわけですね。彼女のように高潔に生きることができたらいいなと思わされました。

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