千姫を拉致!?不穏な計画
ところが、千姫の再婚話の裏で、不穏な計画が持ち上がっていました。
石見津和野(いわみつわの)藩(鳥取県津和野町)主・坂崎直盛(さかざきなおもり)は、何と、千姫の輿入れの行列を襲撃し、彼女を拉致しようとたくらんでいたのです。
事の発端は、諸説ありますが、千姫が大坂城から救出された後に家康が直盛に彼女の身の振り方を相談したことだったそうですよ。縁談話を取りまとめて欲しいとでも言ったのでしょう。
そこで、直盛は公家との縁談をほぼ取りまとめたのですが、話がまとまった矢先に、千姫が本多忠刻に嫁ぐという話になってしまったのです。この縁談はフイになってしまい、坂崎は面子をつぶされた格好になってしまいました。
未遂に終わった襲撃計画
自分のはたらきが無駄になったことで屈辱を感じた直盛は、千姫の輿入れを襲撃し、彼女を奪ってしまおうというとんでもないことを計画します。家来を集めていざ決行!というところまでいきましたが、この計画はすでに幕府に漏れており、大勢の幕府兵に取り囲まれた直盛の計画は頓挫することとなりました。そして彼は謀殺されたとも、自害したとも伝わっています。
この話には諸説あり、大坂城落城時に家康が「千姫を助けた者に彼女を嫁にやろう」と言ったため、直盛が助け出したのですが、結局千姫が他のところに再婚してしまったために恨みに思ったという話もあるそうです。またその一方で、火傷を負いながら千姫を助けた直盛の顔を見て、千姫が拒絶したという俗説もあるんですよ。
ただ、もっとも有り得るのは最初の説。
まとめた話を反故され、面子をつぶされることは、武士にとっては屈辱でしかありません。似たような例として、本能寺の変に至った明智光秀の例もあります。一説に、光秀が和議を取りまとめた相手に対し、織田信長が突然討伐を宣言したことで、面子をふみにじられた光秀が信長打倒を決意したという話もありますからね。
2度目の新婚生活
坂崎直盛の一件は、当然、千姫の耳にも入ったことでしょう。しかし、彼女に非があるわけではありませんから、輿入れは何事もなく行われ、晴れて彼女は本多忠刻の正室となりました。
桑名城で新婚生活を始めた千姫は、忠刻とは美男美女のカップルでお似合いでした。やがて2人には一男一女が生まれることになります。
輿入れの翌年、本多家は播磨姫路(兵庫県姫路市)に移封されることとなり、千姫は夫や舅夫妻と共に姫路城へと移りました。ここでは「播磨姫君」と呼ばれ、約10年を過ごすことになったのです。
姫路城と千姫
姫路城に移った千姫は、化粧櫓と呼ばれる櫓を休息所として使ったと言われています。また、居住スペースだった西の丸から続く長い廊下(百間廊下/ひゃっけんろうか)から男山(おとこやま)を望み、拝んでいたそうです。そしてその男山に天満宮をつくり、本多家の繁栄を祈願しました。今では「千姫天幡宮」と呼ばれ、縁結びのスポットとしても有名になっていますよ。
夫の死、そして江戸に戻った千姫の余生
幸せな結婚生活が続くかに思われましたが、やがて千姫を再び悲劇が襲います。幼い息子を亡くしてから、続けざまに夫・忠刻、姑、実母を失うことになってしまいました。そして彼女は江戸に戻り、出家します。彼女の余生を支えたのは、弟である将軍・徳川家光やその息子でした。では、千姫の人生の終盤について見ていきましょう。
息子、夫、姑、実母を相次いで失う
元和7(1621)年、千姫は突然の悲劇に見舞われます。幼い息子・幸千代が、わずか3歳という年齢で亡くなってしまったのです。跡継ぎを失い、本多家は悲嘆に暮れました。
しかも、その5年後のこと。寛永3(1626)年、夫・忠刻が病に倒れ、31歳の若さでこの世を去ってしまったのです。将軍の義兄に当たる人物で、将来的にも期待されていた忠刻の死は、世間にも衝撃を与えました。
それでも、天はこれでもかというばかりに苦難を千姫に与え続けました。同じ年に姑が亡くなり、実母の江までもが亡くなってしまったのです。
1年に3度も近しい人々を失い、千姫の悲しみは想像を絶するものだったに違いありません。まさに、失意のどん底でした。