室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の世を駆け抜けた武田四天王たち~彼らの史跡もご紹介~

兄虎昌の死と、主君信玄の死

1563年、名を飯富三郎兵衛と改名した昌景。相変わらず飛騨への出兵や、北条氏との戦いなどに参加し、戦塵の中で過ごしていました。ところが武田氏にとって一大事が起こりました。理由は信玄の嫡男義信の謀反。兄の虎昌もそれに加担していたというのです。一説には昌景が密告したともいわれていますが、真偽のほどはわかりません。

結局、義信は自刃、虎昌も切腹という処分が下ったのです。昌景は飯富姓のままでは肩身が狭く、これまでの恩賞という形で断絶していた山県氏の名跡を継ぎ、山県昌景と名乗るようになったのでした。またその際に虎昌が許されていた赤備えと、その家臣たちも昌景が引き取り、武田家中最大の部隊となりました。

1572年、徳川家康と正面切って戦った三方ヶ原合戦でも武勇のほどを見せつけ、その後も徳川の属城を次々と攻略していきます。しかし、その最中に主君信玄が病を患って陣中で没してしまったのでした。信玄の遺命で勝頼をしっかり補佐するよう命じられますが、勝頼とは非常に折り合いが悪かったといいますね。

長篠で壮絶な死を遂げる

1575年、武田氏にとって運命の戦いとなった長篠合戦。昌景たち重臣たちは、兵数に勝る織田徳川連合軍に対して不利を悟り、主君勝頼に翻意を促し諫めますが、徒労に終わります。戦いの前、敗戦を予感した昌景たちは大通寺の井戸水で別れの盃を交わし、決戦地へ向かったそうです。

この戦いで武田勢は次々と鉄砲の餌食となり、昌景自身も13度も敵陣へ討ち入り、身に17発もの弾丸を受けて絶命します。その時、手に持っていた采配を口にくわえたまま息絶えていたそうです。昌景が死んでもっとも悲しんだのは、主君の勝頼ではなく、敵として幾度も相対した徳川家康だったとのこと。

山県昌景ゆかりの史跡【大通寺の盃井戸】

長篠の戦い直前に、昌景らが最後の別れの盃を交わした場所です。現在でも井戸は枯れることなく水をたたえており、往時を偲ばせています。

【場所】愛知県新城市長篠字市場51

【車でのアクセス】新東名自動車道新城ICから約5分。

【電車でのアクセス】JR飯田線長篠城駅下車、徒歩10分

「鬼美濃」と恐れられた勇将【馬場信春】

image by PIXTA / 33182263

足掛け40年、70度もの戦場に加わりながら傷ひとつ負わなかったという戦いの神のような人物です。最期は長篠の戦いで戦場の露と消えますが、周囲の敵からは「鬼美濃」と恐れられ、その武名が消えることはありませんでした。

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明石則実