かつてのバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と言われた理由をわかりやすく解説
バルカン半島諸国をめぐるロシアとヨーロッパ諸国の対立
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当初は、各民族がそれぞれに独立を主張していました。しかし、いつの間にか、バルカン諸国には、強く民族ごとの独立を主張する国と、バルカン諸国が協力して独立を勝ち取ろうとする国が対立するようになります。それぞれに、ロシアやヨーロッパ諸国が支援をすることによって、オスマン帝国の衰退はより強まり、バルカン諸国同士の対立も深まったのです。すなわち、ロシアとヨーロッパ諸国間の代理戦争的な様相を呈し始め、本来の争いの意味合いとは違う別の思惑も派生してきました。オスマン帝国自身の国内でも反乱が起こるようになり、オーストラリアにボスニア・ヘルツェゴビナを譲ることで、ロシアのスラブ諸国への介入を牽制しようとしました。
バルカン戦争が起こった
1912年、ついに第一次バルカン戦争が起こったのです。バルカン半島の支配権を確保したいオスマン帝国とそれに従う側と、独立を勝ち取りたいロシアなどの支援を受けるバルカン同盟諸国側での戦争でした。この戦争でオスマン帝国は敗れ、バルカン半島にあったほとんどの領土を失い、領土の帰属は各民族に移ってしまったのです。
しかし、今度は勝ったバルカン同盟(セルビア、ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ)内の諸国同士で、獲得した領土をめぐって対立が生じます。特にブルガリアは他の国と対立が激しく、ついに第二次バルカン戦争が起こったのです。この戦争で敗れたブルガリアは、今度はオスマン帝国とともにオーストラリアやドイツに支援を求めました。
この動きによって、ロシアの支援を受ける諸国とドイツ・オーストラリアの支援を受ける国とがバルカン半島で再び対立を強めます。依然としてバルカン半島はヨーロッパの火薬庫の状態から抜け出すことができなかったのです。
オーストリアの皇太子をセルビア青年が暗殺
このような不穏なバルカン半島で事件が起こります。1914年に、ボスニアのサラエボで、オーストリアの皇太子だったハプスブルグ家のフランツ・フェルデナント大公がセルビア青年によって暗殺されたのです。この問題をめぐってオーストリアとセルビアは対立し、オーストリアはセルビアに対して宣戦布告をして戦争状態に入りました。
セルビアは、バルカン半島に南スラブ民族の統一国家を目指しており、その裏にはロシアの南下政策とパン・スラブ主義によるバルカン半島の支配力確保の動きがあったのです。ドイツやオーストリアは、ロシアのバルカン半島支配を恐れ、対抗しようとします。それに対してロシアは、イギリスやフランスと同盟を成立させてドイツに対抗しようとしたのです。この同盟を三国協商と呼んでいます。
ヨーロッパの火薬庫とが火を噴いた_第一次世界大戦へ
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セルビアは、支援を受けるロシアに応援を要請し、ロシアも総動員令を出して、戦争に参加したのです。一方、オーストラリアと同盟を結んでいたドイツは、ロシアと同盟を結んでいたフランス両国に対して宣戦布告しました。また、ドイツがその際に中立国であったベルギーに侵入したことを理由に、三国協商側のイギリスもドイツに宣戦布告したのです。
これによって、戦争は全ヨーロッパに拡大し、第一次世界大戦に突入しました。
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オーストリアとセルビアの争いから火が付いた
もともと、オーストリアとセルビアの小競り合いであったものが、ついに世界に火の手が燃え拡がっていったのです。それは、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫であったことの証明でした。
しかし、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫となってしまった背景には、多くの問題がからまっていたのです。ロシアの南下政策とバルカン半島にスラブ民族の国を打ち立てようとするバルカン同盟の思惑に対して、バルカン諸国と接するドイツ、オーストリアなどとの対立がありました。さらに、拡大主義を示すドイツは、中東、アフリカ地域での植民地問題でイギリス、フランスと対立していたのです。イギリスとフランスがロシアと同盟を結んだことで、ヨーロッパ自身が大きな火薬庫になっていたのでした。
そのため、バルカン半島のサラエボで生じた火の手は瞬く間にヨーロッパ全土に広がってしまったのです。
大戦に敗れたオーストリア帝国は消滅_バルカン諸国は独立
第一次世界大戦では、ドイツとオーストリアは敗れ、ハプスブルグ家のオーストリア帝国は消滅してしまったのです。騒動を拡大させたロシアも、共産革命によってソビエト連邦に変わり、戦争からいち早く撤退していきました。
一方の当事者であったバルカン諸国は、帰属問題を解決し、独立をそれぞれに手にします。しかし、セルビアが望んだようにバルカン半島のスラブ民族による統一国家は認められませんでした。バルカン半島は、同じスラブ人でもさらに多くの民族に分かれていたのです。中央アジアにその起源を持つハンガリーのマジャール人もいました。宗教的にも、ロシア正教との結び付くキリスト教徒と、オスマン帝国の影響でイスラム教徒(ムスリム)も多くいたのです。それぞれの思惑が入り組み、そこに影響力を保ちたいヨーロッパ諸国がそれぞれに介入して統一はできませんでした。
また、第一次世界大戦末期には、アメリカ合衆国のウィルソン大統領が、民族は自ら自分で意思決定をすべきだとする民族自決論を提案したのです。そのため、個々の民族が独立を主張したこともありました。