幕末日本の歴史江戸時代

日本史に影響を与えた徳川将軍15人を徹底的に解説

10:徳川家治【将棋が大好きだった将軍】

image by PIXTA / 7844252

10代将軍である徳川家治なんですが、この人も幕府の政治にあまり関わることはありませんでした。その理由は家重みたいにどうしても幕政に関わることができないのではなくただ単にやる気がないだけ。家治は幕府の政治を当時権力を握り始めていた田沼意次に全て丸投げして自分は趣味であった将棋をひたすらやっていたそうです。

その中でも詰将棋は今の時代のプロ棋士から見ても絶賛を受けるほど名作揃いだったそうで、将軍じゃなくて将棋の講師の方が向いていたのではないのかとは思いますね。

11代:徳川家斉【50年在位したオットセイ将軍】

image by PIXTA / 44739084

11代将軍である徳川家斉なんですが、この人は元々御三卿と呼ばれる徳川吉宗の時代に新しく作られた家の一橋家出身の人でした。

この人を一言で表すのであればとにかく子沢山。オットセイの薬やチーズが大好きだったそうでそのお陰か子供の数は御落胤(正式な子供として見られていない人のこと。一休さんや保科正之がこれに当たる)を除けば全部で53人。政治の方は最初の方は松平定信が寛政の改革で幕政を主導していきましたが、彼のその真面目な性格が気に入らなかったのでしょう。尊号一件と呼ばれる事件が起こったことによって彼をクビにします。

その後は定信がこれまでに努めてきた倹約を一気に撤廃して自ら政治を行うようになったとか。幕府の財政がこれによって火の車になったことはここだけの話です。

ちなみに、今では日本最高レベルの大学である東京大学の赤門は元々家斉の娘である溶姫が加賀前田家に嫁ぐ際に前田藩邸の門を赤く塗ったのが由来なんだとか。さらにその赤くした理由も「子供が多すぎて把握しきれていない家斉がわかるようにするため」だったそう。

あと、家斉に関するエピソードの一つとして家斉は菊を見ながら酒を飲もうと家臣に菊を調達するように命じます。家臣たちは一斉に豪華絢爛な菊を用意するのですが、その中に一つ地味な一輪の菊がポツリと。家斉な豪華絢爛な菊には目をくれずこの地味な一輪の菊を持ってきてくれた家臣を重用し始めたそうで。

ちなみに、この家臣こそがあの天保の改革を行う水野忠邦なんですが、彼がどんな政治をしたのかは次の家慶の時に解説したいと思います。

12代:徳川家慶【ペリーが来た時の将軍】

image by PIXTA / 46112915

12代将軍である徳川家慶なんですが、この人が将軍に就任した時には徳川家斉がたくさん散財したおかげで幕府の財政は破綻してもおかしくなかった状態でありました。

しかも家慶は何か特別に政治のスキルがあるわけでもなく、福井藩主であった松平春嶽曰く「凡庸」だったそうで、政治のことは全て家臣に丸投げ状態だったそうです。

そこに颯爽と現れたのが、上でも紹介した水野忠邦でした。忠邦は天保の改革と呼ばれる政治改革を断行。松平定信が行った寛政の改革をベースとしながら風紀を正したり、コストカットを行ったりしました。

しかし、この天保の改革は幕府の家臣や民衆の怒りもあってあっさり失敗。水野忠邦は失脚してしまい、幕府の財政もあまり変わることはありませんでした。どうしようと悩む家慶。さらにとんでもないことに突如浦賀にとんでもなく大きな漆黒な船がやってきたのでした。そう、このことが皆さんご存知黒船来航です。

黒船が来航したことにかなりの衝撃を受けたのか家慶は愕然。それに合わせるかのごとくこの年から急激に体調が悪くなりそして1853年、家慶はこの世を去ったのでした。

こうして始まった幕末の時代。徳川幕府は一体どんな事をしていたのでしょうか?

13代:徳川家定【おかし作り大好きな将軍】

image by PIXTA / 48210708

13代将軍である徳川家定ですが、彼が将軍に就任した時にペリーがまた来航するなど最初から激動の時代に突入していました。そのため日本のトップである将軍はしっかりとしていなければならないのですが、なんとこの人政務がからっきしだったそうでほとんど老中の阿部正弘という人に投げっぱなしだったそう。

そんな彼が政務よりも大事にしたことがおかし作りでした。特にカステラやふかし芋にはめっちゃ熱心に作っていたそうで幕府の重鎮から『イモ公方』『将軍としては中の下』などボロカスな評価ばかりだったそう。

ちなみに、彼の正室である天璋院篤姫は島津家出身で将軍の正室では初めての外様大名出身でもあったそう。これがのちの島津家の躍進につながっていきました。

14代:徳川家茂【聡明だったけど甘党だった将軍】

image by PIXTA / 48286453

14代将軍である徳川家茂(いえもち)なんですが、彼も元々将軍になる立場ではなく、紀州藩出身の人物でした。ちなみに、この時に徳川慶喜と将軍職を巡って争いが起きましたが、この時に井伊直弼が慶喜派の人を弾圧したのがいわゆる安政の大獄と言ったりします。

そんな彼ですが、評価といえは前将軍の家定とは打って変わっていいものばかり。特に幕臣の勝海舟は家茂が亡くなったことを「徳川家今日滅ぶ」といったほどなんだとか。(この時は第二次長州征伐に負けたばかりだから一概にはいえませんけどね)

しかし、彼は健康管理にはちょっと疎かった模様で大の甘党だったことがたたり、亡くなった時には虫歯だらけでまともな歯が2つしかなかったとか。そのため20歳の時に脚気という病気で亡くなってしまい、幕府の滅亡を決定づけてしまったとも言われています。

15代:徳川慶喜【最後は趣味に明け暮れた将軍】

image by PIXTA / 44440552

15代将軍である徳川慶喜なんですが、彼が将軍に就任した頃にはすでに長州藩と薩摩藩が同盟を結び倒幕まっしぐらだった頃。すでにどうしようもない時に将軍になった慶喜でしたが、彼はとにかく評価が二分する将軍でもありました。

とはいうものの、鳥羽伏見の戦いにおいていち早く逃げ帰ってしまったという臆病者としての評価と大政奉還を行なって江戸無血開城を行い江戸を火の海にすることを回避したという現在の東京を守った名君だという声が分かれており、今でも学者の間ではどっちが慶喜の評価なのかは分かれているそう。

でも私としてみたら将軍就任からほとんど滅んでいた幕府をなんとかいい形で締めくくれたのは慶喜の潔い決断があってこそだと思っており、もしこのままいけば江戸は焼失していたかもしれません。そう考えると名君だといってもいいかもしれませんね。

ちなみに、幕府滅亡後は徳川家ゆかりの地である静岡にて隠居生活を満喫して趣味であったカメラや油絵や自転車などを楽しむ毎日を送り最後には大正2年(1913年)まで余生を謳歌しました。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: