4代:徳川家綱【武断政治から文治政治に転換したさようせい将軍】
家康・秀忠・家光。この三人なら知っている人は多くいますが、4代目の家綱の代となると「知らない」となる人が多いと思います。
そんな家綱ですが、この人を一言で表すのであれば『さようせい将軍』そのとうりこの家綱という人はどんなことでも「さようせい(その通りにして)」といって政務を家臣に任せっきりでした。これだけ見ればただのダメ将軍となるのですが、家綱はなんとラッキーな事に家臣に恵まれていたのです。その有能な家臣の代表格がのちの会津藩初代藩主となる保科正之でした。
実はこの家綱の時代の時に明暦の大火という江戸を丸ごと火の海にした大火事が起きましたが、保科正之は将軍に変わって幕政をリード。江戸の復興に力を注ぎ、また、慶安の変という浪人たちが幕府転覆を計画していた時にはこれまでの幕府の方針であった武断政治に変わって、学問などで日本を治める文治政治に変えるなど幕府のその後に大きく影響する政策を立てていったのです。
家綱自身は自ら政務を取ることはほとんど無かったですが、実は自分の能力を知っており、自分よりも優れている家臣に任せるというのは私から見たら凄いと思います。
こちらの記事もおすすめ
「火事と喧嘩は江戸の華」の由来~大火災と戦った人々~ – Rinto~凛と~
5代::徳川綱吉【儒学を愛した犬公方】
5代将軍である徳川綱吉。この人といえばなんといっても生類憐みの令という法律を出して人間よりも犬の方がえらくしてしまったとんでもない将軍というイメージが強いと思います。
しかし、実はこれには裏があって綱吉という人物はこの徳川15代将軍の中でも一二を争うほど勉強熱心だった将軍であり、その中でも儒学を特に愛していました。儒学というのは孔子が説いた儒教がベースとなっている学問なんですが、綱吉はこの儒学に基づく政治を行おうとしていたのです。その一環となった法律が生類憐みの令なんですが、これは最初の頃はただいたずらに『犬は偉いんだ』とはせずに犬を「むやみに殺すのは良くない」や「捨て犬は出来るだけ養育するように」など慈悲にあふれている内容ばかり。これだけ見れば素晴らしいのですがやはり度を越すとどんなものでも良くなくなってしまうのが世の常。
綱吉の生類憐みの令もこんなことの一つだったのでしょうかね。
こちらの記事もおすすめ
動物愛護法のさきがけ!~生類憐れみの令は悪法だったのか?~ – Rinto~凛と~
6代:徳川家宣【側用人によって助けられた将軍】
6代将軍である徳川家宣ですが、この人は元々甲府藩の藩主であり、将軍になることはほとんどあり得ない立場にいました。しかし、綱吉が子供を残さずにこの世を去ると家宣に白羽の矢が当たり将軍となりました。
この人の最大の特徴はなんといっても側用人を重用したこと。『折たく柴の記』で有名な新井白石や元能楽師であった間部詮房などをスカウトしていわゆる正徳の治という政治体制を築き上げました。
新井白石曰く「家宣は将軍でこれほど学問に精通している人は他に例がない」というほど頭が良く、さらに度を超えてしまった生類憐みの令の廃止など民衆のためになる政治を行ってかなり人気は高い位置にいたとか。
しかし、彼の残念な所は将軍就任からわずか3年後にインフルエンザによってこの世を去ってしまったことで、これが原因で将軍家は混乱状態に入っていくのでした。
7代:徳川家継【幼くして死んでしまった将軍】
7代将軍である徳川家継ですが、この人が将軍に就任したのがなんと4歳。これはこれまでの将軍の中で最も若い年齢だったのです。
しかし、4歳の人に幕府の政治ができるとは到底思えません。そのためこの頃の幕府は6代の家宣の時の同じ側用人であった新井白石や間部詮房などが引き続き幕府の政務を行なっていました。
しかし、かわいそうな事にこの家継は将軍になってから3年後に死去。さらにこの時家継は7歳だったため子供はおらず、なんとこの時点で家康からの直系の血筋は断絶してしまいました。
普通ならこの時点でおしまいなんですが、さすが家康。この時の対処法としてとある家柄を作っていました。それは次の将軍の時に解説していきたいと思います。
8代:徳川吉宗【享保の改革を行った暴れん坊米将軍】
さて、こうして将軍家は断絶してしまいましたが、家康はこんなこともあろうかと御三家と呼ばれる家を残していました。御三家とは家康の子供である三人に尾張藩・紀州藩・水戸藩の3つの藩を与えたことに始まりましたが、この徳川吉宗は紀州藩藩主の出身でした。
この人はいわゆるのちの暴れん坊将軍のモデルになるのですが、彼の特徴はなんといっても享保の改革を将軍自ら行ったことにあります。江戸三大改革とはよく言いますが、その中で将軍自ら行った改革は享保の改革のみです。
吉宗は享保の改革において公事方御定書(くじかたおさめがたき)や目安箱の設置など法律の制定や民衆の意見を聞くシステムを導入する一方で、定免法や上米の制などお米を中心に幕府の借金をなんとかしようと努めていきました。そのため吉宗はこの頃は暴れん坊将軍ではなく米将軍と呼ばれていたとか。
さらに吉宗はこれまで幕府の財政を圧迫させ続けてきた大奥にもメスを入れ始めます。
吉宗は大奥内でありったけの美女をかき集めるように命令。「さすが将軍。やることが違う」と思ったのかみんな張り切って美女に選ばれようとするのですが、吉宗はこの美女たちをことごとく大奥から解雇するように命令しました。
吉宗曰く「美女は大奥にいなくても嫁ぎ先がすぐに見つかる」ということなんですが、これはどうなんでしょうかね。
結局、この美女たちの解雇によってそのお付きの人を含めて約2000人の人員コストをカットしたとこによってある程度の借金をなんとかすることに成功しました。
こちらの記事もおすすめ
これだけは大事!幕府を支えた江戸の4つの改革 – Rinto~凛と~
9代:徳川家重【上手くしゃべられなかった将軍】
9代将軍である徳川家重。しかし、この人があまり幕府の政治に介入することはほとんどありませんでした。実はこの人、昔からの言語障害だった模様で上手く思い通りに喋れなかったそうで、政治をするにもできないという非常に可哀想な境遇にいた将軍でもあったのです。
しかし、家重は家重なりに頑張った模様で家重が思っていることを唯一理解してくれた大岡忠光と田沼意次を重用して大名として取り立てるなどをしており、少なくとも人を見る目という能力はあったとは思います。