室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる!甲斐の虎「武田信玄」の生涯をわかりやすく解説

決戦!三方ヶ原

1571年、信長は比叡山延暦寺を焼打ちしました。信玄は焼打ちを「天魔の所業」として激しく非難。天台座主をかくまうなど信長との対決姿勢を鮮明にします。1572年、信玄は足利義昭の信長討伐令に応じて上洛の軍を発しました。

信玄は軍を3つに分けます。秋山信友は東美濃の岩村城を占領。山県昌景は三河を攻撃。信玄率いる本隊は青崩峠を通って遠江に攻め込みます。家康は直ちに信長に援軍を要請しますが、周囲を敵に囲まれた信長は3,000の兵を送るのみでした。

12月19日、武田軍は遠江の重要拠点である二俣城を攻略。家康の本拠地である浜松城のすぐ近くに迫ります。劣勢の家康は浜松籠城を選択しますが、武田軍は浜松城を素通りし三方ヶ原方向に転進。

無視された格好になった徳川軍は武田本隊の三河侵攻を食い止めるべく三方ヶ原へと急ぎました。信玄は家康の行動を完全に予測して三方ヶ原で待ち受けます。戦いは武田軍の完勝におわりました。

武田信玄、無念の死

三方ヶ原の敗北で家康は武田軍と戦う戦力を失い、家康はかろうじて浜松城に逃げ戻りました。武田軍はそのまま西へと向かいます。1573年1月、武田軍は三河に侵攻し野田城を攻め落としました。

このころから、信玄の健康状態が目に見えて悪化します。信玄は持病が悪化してたびたび吐血しました。信玄の病状を案じた家臣たちは軍を甲斐に返すことを決定します。

1573年4月12日、信濃国駒場まで引き返したところで信玄は息を引き取りました。享年53歳。信玄は後継者となった四男の勝頼に自分の死を3年隠すことを命じたといいます。

信玄の後を継いだ勝頼は徳川に対する攻勢を強めました。しかし、強引な領土拡大は裏目に出ます。1575年の長篠の戦いで勝頼は織田・徳川連合軍に敗退。以後、武田家は急速に瓦解しました。

武田信玄は神として武田神社にまつられている

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武田氏は信長の甲州征伐によって武田氏は滅亡しました。武田氏の領国は信長、家康へと引き継がれました。武田氏が本拠を置いた躑躅ヶ崎館の跡地には、現在、武田神社があります。武田神社の祭神は武田信玄。神社の宝物殿には武田家にまつわる貴重な品々が治められていますので、武田信玄ファンならぜひとも訪れていただきたい場所ですね。

 

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