信濃侵攻
当時の信濃は、有力豪族によって分割支配されていました。北・東信濃は村上義清の支配下にありました。中部信濃は諏訪頼重、守護の小笠原長時の勢力圏です。海野平の戦いの後、武田氏と諏訪氏の関係が悪化していました。
1542年、晴信は諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を武田の支配下に置きます。次いで南信濃方面の高遠氏・藤沢氏を平定。木曽氏へも圧力をかけます。1548年、晴信は村上義清と上田原で対決しますが敗退。板垣信方ら宿将をふくむ多くの将兵を失います。
しかし、この機に乗じて攻め込んできた小笠原長時軍を塩尻峠の戦いで撃破。小笠原氏の本拠の林城を制圧し、中部信濃の支配権を握ります。1550年、勢いに乗る晴信は村上氏の砥石城を攻撃しますが、再び村上義清に大敗しました。
武田信玄の敗北は村上氏に対する2つの戦いだけです。この状況を覆したのが真田幸隆でした。幸隆が謀略で砥石城を陥落させると晴信は村上義清を徐々に追い詰め、義清を越後に走らせます。
甲相駿三国同盟の締結
晴信が信濃に向けて大規模な軍事行動ができた理由は、駿河の今川氏、相模の北条氏との間で同盟を結んだからでした。それぞれの本拠地の国名から一字を取り、甲相駿三国同盟ともいわれます。この同盟は三者にとって大きなメリットがありました。
まず、駿河の今川義元は京都への上洛を目指していました。そのため、兵を西に進めた時に背後を襲われることを警戒します。北関東や房総半島への勢力拡大を狙っていた北条氏康も背後を突かれたくない思いは同じ。
そこで今川と同盟していた武田晴信は北条氏康にも同盟に加わるよう促し、今川義元に承知させたのです。これにより、南と東か攻められる可能性をなくすることに成功した晴信は甲斐の全兵力を北西の信濃に振り向けることができました。
川中島の死闘
晴信の信濃侵攻も残すところ現在の長野市にあたる川中島周辺の北信を残すのみとなっていました。本拠地を追われた村上義清が逃げ込んだ先は越後です。越後では長尾景虎(上杉謙信)が国内をまとめていました。村上義清や北信濃の諸豪族は武田の侵略を景虎に訴え、景虎は北信に出兵を繰り返します。
川中島で上杉・武田両軍が向き合ったのは全部で5回。そのうち、最も激しい戦いとなったのが1561年の第四次川中島合戦です。武田軍は総勢20,000、上杉軍は13,000の兵を動員。両軍は川中島で激突しました。
武田軍は軍を二手に分け、上杉軍を背後から攻撃。慌てて平野に出てきた上杉軍を挟み撃ちにする啄木鳥戦法をとります。上杉軍は武田軍の前日の動きなどから奇襲攻撃を察知。先回りして晴信本隊が布陣する八幡原に展開しました。
この段階で八幡原の武田軍8,000に対し、上杉軍は10,000以上。本来なら劣勢な上杉軍は武田軍を上回る兵力を集めることに成功します。そのため、前半戦は上杉軍の優位に戦局が推移。別動隊12,000は奇襲攻撃に失敗したことを悟ると全力で上杉軍の後を追います。後半戦は追いついた武田別動隊が上杉軍に襲い掛かり形勢は逆転。上杉軍は善光寺へと引き上げました。
こちらの記事もおすすめ
『義の名将』『越後の龍』今でも愛されている上杉謙信の生涯と噂について解説 – Rinto〜凛と〜
天下への道
川中島の戦いの後、上杉謙信の矛先は関東や北陸方面に向けられます。そのため、六度目の川中島はありませんでした。一方、三国同盟の一角である今川義元は桶狭間の戦いで戦死。今川家の弱体化を見た信玄は駿河に侵攻。三国同盟は崩壊します。駿河を併合し着実に領土を拡大した信玄は上洛を実行に移しました。
こちらの記事もおすすめ
嫡子義信の死と駿河侵攻
第四次川中島の戦いの少し前の1559年頃、晴信は出家し「徳栄軒信玄」と号します。1560年、25,000を率いて上洛中だった今川義元が桶狭間の戦いで討ち取られたとの知らせが信玄にもたらされました。義元死後、今川家は急速に弱体化します。
今川氏との関係が徐々に悪化する中、1567年、信玄の嫡子義信が廃嫡されるという事件が起きました。義信の傅役飯富虎昌の弟、飯富三郎兵衛(のちの山県昌景)は飯富虎昌らが信玄暗殺を企てていると密告。これに基づき、首謀者は処刑され義信は嫡子の地位を追われました。義信の妻は今川氏に送り返され今川家との縁が切れます。
1568年、信玄は駿河へと出兵。今川・北条と戦闘状態にはいりました。北からは武田、西からは徳川に攻められた今川氏は抵抗できずに滅亡。武田氏は念願の海への出口を手に入れました。
北条との再同盟と信長包囲網
信玄が駿河を手に入れたのと同じ年、織田信長は足利義昭を伴って上洛を果たし、義昭は将軍となります。しかし、信長と義昭はまもなく対立関係となりました。
自分で固有の武力を持たない将軍義昭は各地の有力大名に信長討伐の御内書を発送。信玄はこれに応じて信長の盟友である徳川領の遠江・三河に出兵しました。
1571年、相模の北条氏康が死ぬと跡を継いだ北条氏政は父の遺言であるとして武田と対抗するために結んでいた上杉氏との同盟を破棄し武田と再同盟します。
こうして再び後方の安全を得た信玄は徳川・織田と戦いに専念できるようになりました。当時信長は浅井・朝倉・本願寺などを敵に回す信長包囲網のただなかにいます。信玄は信長包囲網の一角に参加し、東から織田・徳川に圧力を加えました。
こちらの記事もおすすめ
異端の戦国武将織田信長!革新性と厳しさの天下布武の結果はいかに? – Rinto~凛と~