幕末日本の歴史江戸時代

幕末の革命児「高杉晋作」長州藩屈指の切れ者をわかりやすく解説

3-3晋作のその後の活躍と死

翌年には、藩全体を討幕へと向かわせ、下関にある功山寺で決起しました。晋作の軍事的才能は誰もが認めています。藩が所有していた軍艦を奪い取った上、我が軍のものにしたのです。所謂泥棒?その後、海軍総督として挑んだ第二次長州征討では、指揮を取り幕府を翻弄して藩の危機を救っています。この戦い方は、夜中にこっそり蒸気船で幕府軍の主力船をいきなり砲撃したというもの。さすがの幕府軍もたまりません。敵の主力艦は尻尾を巻いて逃げかえり、戦況を有利に持って行きました。

残念なことにこの時既に晋作は、肺を患っていました。慶応3(1867)年4月14日に、下関で29歳という若さで生涯を閉じました。幕府が大政奉還をする半年前のことでした。諱は「春風(はるかぜ)」とされ、東行庵に埋葬されています。ここは、奇兵隊の本陣が置かれた場所で、晋作本人の希望だったようです。

20歳そこそこで未亡人になった妻の雅は、その後再婚することなく77歳まで生き高杉家を守っています。晋作の子高杉梅之進(後の東一)は、明治政府の外交官として活躍しました。

4.脱藩を何度も繰り返す問題児の高杉晋作は、仲間からの信頼は厚かった

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晋作が眠る東行庵は、山県有朋の草庵があった場所です。後に晋作の恋人で尼となった「おうの」に譲渡されています。現在の庵は明治時代になって、伊藤博文や山県有朋らの寄付で作られました。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」伊藤博文が、晋作を伝説化した名文句です。東行庵の晋作の顕彰碑に刻まれています。

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