幕末日本の歴史江戸時代

幕末の革命児「高杉晋作」長州藩屈指の切れ者をわかりやすく解説

2-3遅咲きの就職は困難続き

文久元(1861)年、23歳でようやく晋作は、藩主の息子定広の小姓役に就任し江戸に行きました。でも、晋作は、当時死罪になってもおかしくない、脱藩を5も繰り返しています。

逃げ出すことが上手な晋作は、江戸にいた定広に長州に戻って国防に努めるよう進言するも意見が聞き入れられないと脱藩。長州藩過激派の京都への進軍を止められなかった時も脱藩。暗殺されそうになった時は、町人姿で逃走したという話も残っています。「逃げるが勝ちと」、誰よりも逃げる能力にも長けていたようです。

2-4上海視察団に選ばれる晋作

松下村塾で頭角を現していた晋作は、若手ホープのひとりでした。上海へ使節団を派遣する時の人選にも適任者として抜擢されました。事実かは疑わしいですが、別の理由があったとか。攘夷思想に燃える晋作は、過激な言動を繰り返しており、危険人物視されました。上層部が心配し、海外に興味を示す晋作を上海に送り込めば大人しくなるだろうとの思惑があったからだとか。

晋作が上海で最初に見たものは、西洋建築の商家や領事館など、日本より進んだ建物が並ぶ街並みだったのです。当時の上海は「太平天国の乱」の最中で、清の領土であるにも関わらず外国領のような存在でした。キリストの影響を受けた民間が新興宗教の太平天国軍鎮圧のためにイギリスなど外国軍の力を借りていたのです。

当時の上海では、「租界(そかい)」が行われていました。事実上外国に支配されおり、西洋人優位の現状だったのです。しかも、晋作が学んだ儒教の聖人孔子の廟にはイギリス軍が駐留し、街にはアヘンに犯された清の民がバタバタと倒れていました。

晋作は日誌に、「清国人は西洋人に会えば道をよける。」と書いています。晋作は、最新武器や機械はもちろん、街の様子や人々の様子までレポートにするよう藩命を受けていました。これは、『遊清五録』としてまとめられています。

2-5明治維新へと時代が流れる日本

晋作が上海に行っていたころ日本でも、外国勢力を追い払う動きが過熱していました。熱狂的な「攘夷思想」が日本中にはびこっていたのです。晋作もこのままでは日本も上海のようになると危機感を募らせています。この思いは、上海にいるころに湧き上がった感情で、誰かが革命を起こさなければ日本は救われないと感じたからです。

欧米列強に対する危機意識はどんどん高まり、徳川家康が江戸を誕生させた時から260年続いた江戸幕府を倒しました。そして、新たな日本を作る原動力へと繋がったのです。ここから、日本最大の革命「明治維新」が成し遂げられます。

3.奇兵隊創設と晩年の晋作

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上海から帰ってしたことは、オランダの蒸気船を相談なく藩のお金を使って購入したこと。その後、品川に建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨(いのうえかおる)らと焼き討ちにしました。上海で見た悲惨な現状が忘れられなかったのかもしれませんね。晋作は攘夷が無意味なことだと知りながら、突き進んで行ったやるせなさが感じられます。上海から帰国して3年後には、奇兵隊を率いて江戸幕府に勝負を挑みました。

3-1奇兵隊を創設する晋作

晋作は一握りの武士の力だけでは、日本の世は変えられないと考えていました。民の力を集結させて軍事力を強化し、敢然と立ち向かうしかないと思ったのです。晋作は10年の暇を藩に申し出て、萩で隠棲します。文久3(1863)年に身分は関係なく、誰もが入れる洋式軍隊・奇兵隊を創設しました。奇兵隊の初代総指揮官となり、幕府に従う姿勢を崩さない藩の上層部に対し、奇兵隊を率いてクーデターを起こしました。

晋作が帰国して3年経ったころ、開国に反対だった藩は、頻繁に訪れる外国船に頭を悩ましていたのです。上海に視察経験のある晋作に何かいい方法はないかと意見を求めました。

「有志を募り、一帯を創設するのが得策。名付けて“奇兵隊”する。」

これが、志願兵の集団「奇兵隊」の始まりです。志願兵は最終的には、200部隊で2000人の兵が集まったとか。しかし、「教法寺事件」が起こってしまいます。これは、奇兵隊と撰鋒隊が衝突し、奇兵隊が武士を切りつけてしまった事件です。この事件の責任を取らされ晋作は指揮官を更迭されています。

3-2四国艦隊下関砲撃事件後の交渉に勝晋作

京都へ攻め上がろうとする過激派の説得を任せられるも失敗。また、脱藩します。捕まって野山獄に入れられた後に自宅謹慎を言い渡されました。ここ一番の度胸を持つ晋作は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国連合艦隊に敗戦した「四国艦隊下関砲撃事件」の時、家老だと偽り連合艦隊との交渉に同席したとか。

敗戦した立場にありながら強い態度を最後まで変えず、領土の明け渡しや賠償金を支払えとの要求を退けています。“この責任は政府にあり。藩が責任を負ういわれはない”と、突っぱねたのです。これは、植民地状態にあった上海を見た晋作がだからできたこと。要求を受け入れたらいずれ同じ目に合うと見抜いていたからでしょう。通訳として同行していた伊藤博文は後に、この要望を受け入れていたら、日本の歴史は変わっていただろうと語ったようです。

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