幕末日本の歴史江戸時代

日本の近代化を押し進めた幕末の戦争をわかりやすく解説!

大政奉還した徳川慶喜の追い落とし_鳥羽・伏見の戦い

すでに討幕に向けて動き出していた薩摩・長州は、公家の岩倉具視と画策して王政復古を宣言し、明治新政府を成立させたのです。そして、倒幕の勅許(密勅、天皇の命令書)が出されました。ただし、この密勅は岩倉具視と薩摩・長州の偽造とする説が有力です。

京都から追い出された徳川慶喜は、大阪で幕府軍を再編して、京都奪還に向かいます。ここに、伏見・鳥羽の戦いが開始されたのです。伏見・鳥羽の戦いは、軍事力では圧倒的に幕府軍が有利でした。しかし、薩摩・長州を中心とした新政府軍は、岩倉具視の発案によって錦の御旗(天皇の御印)を先頭に立てて軍隊を繰り出しました。そのため、幕府軍は攻撃を仕掛けることができなくなってしまったのです。形勢は一気に新政府軍が有利になり、徳川慶喜は兵士たちを置いて、幕府の軍船に乗り、江戸に逃げ帰ってしまいました。これで、幕府軍は総崩れになり、大敗を喫することになったのです。

明治新政府の討幕戦争_戊辰戦争

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鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府は、すぐに正式な詔勅を発して、諸藩を集めて徳川幕府の討伐軍を進め、戊辰戦争が開戦されました。鳥羽・伏見の戦いに幕府軍が敗れたことで、幕府を支持する大名は少なくなっていたのです。一部地域で抵抗もありましたが、新政府軍は最新の武器を装備して順調にいくつかのコースをたどって、江戸に向かい、江戸を囲むように布陣します。

幕府内には、旗本を中心に新政府軍との戦闘を主張する武士もいました。しかし、幕閣の主だった幕臣たちは、江戸の町が大火に焼けて、多くの江戸の町民が犠牲になることを避けようとします。新政府軍との交渉をしようとしました。篤姫で有名な13代将軍徳川家定の正室だった天璋院なども、薩摩藩出身だったために西郷に手紙を託します。そして、幕末の剣豪と言われた山岡鉄舟の決死の嘆願によって、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現し、江戸城の無血開城が実現したのです。

戊辰戦争は、その後も会津藩などの東北奥羽列藩勢力が抵抗したために、継続されました。最後に白河口などから会津藩になだれ込んだ新政府軍は、会津藩の鶴丸城に砲撃などで猛攻をかけ、その中で会津藩は降伏し、戦争は終結したのです。

最後の戦争_箱館戦争で明治は近代国家に

江戸無血開城の際に、榎本武揚などは幕府の軍船を使って、北海道の箱館に向かい、五稜郭に立て籠り、新政府軍と最後の戦いを挑みました。これを箱館戦争と言います。戊辰戦争の一部とも言われ、すでに新政府が正式に発足してもいるため、幕末の戦争とも言えませんが、明治維新最後の戦争であったため、ここに記載しました。

1868年の10月から翌年5月まで続いた戦争で、新撰組副隊長であった土方歳三や東北列藩の生き残りの武士たちも参加していたのです。榎本武揚は蝦夷共和国を宣言し、その総裁となって戦争をおこないました。しかし、圧倒的な軍事力で攻める新政府軍に対して旧幕府軍は崩壊し、5月18日に五稜郭は開城され、約1,000名が投降して戦争は終わったのです。榎本武揚は許されて、明治時代には大臣にまで登り詰めています。

国内戦争は避けたかったのに起こった幕末の多くの戦争

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幕末の戦争は、当時の欧米列強諸国につけ込まれるということで、もともと多くの人たちは国内戦争を戒めていました。坂本龍馬が薩長同盟を画策したのもそのためだったのです。西郷隆盛ももともと戦争は避けようとしていました。

しかし、それでも、徳川慶喜が徳川家の存続にこだわり、長州藩の怨念などもあって、討幕に対する感情は押さえられず、ついに国内戦争は起こってしまいました。幸い、イギリスは薩長側に、フランスは幕府側に武器などを提供するだけで、結局戦闘に参加することはできず、国内への介入はできなかったです。それは、すでに開国をして修好通商条約を結んでいたために、介入する大義名分がなかったからと言えます。

幕末には時代を変えるために戦争という大きなエネルギーが必要だった

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幕末の明治維新への移行には、戦争によって旧体制にしがみつく徳川家を壊す必要がありました。歴史を見ても、時代が変わる際には、たいていは戦争が起こっていたのです。現代の日本は、戦争とは無縁な時代にありますが、世界に目を向けると、いつ大きな戦争が起こっても不思議ではない状況にあります。すなわち、時代が変わろうとしているのかもしれません。このような現実を私たちは認識しておく必要があります。

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