幕末日本の歴史江戸時代

江戸時代では珍しい個人主義者「徳川慶喜」の人物像をわかりやすく解説

個人主義から見る慶喜の行動の数々

慶喜の行動を個人主義から見た場合に、今まで謎とされた慶喜の行動の数々が筋が通った形で見えるようになってきます。例えば将軍職への就任を何度も辞退したのは、一重に自分の時間を自分のためだけに使えないからです。また安政の大獄で謹慎させられている所へ島津久光が勅命を掲げて江戸へ赴き、慶喜を将軍後見職に擁立した功績をもってしても、慶喜は久光を相手にすることはありませんでした。これは慶喜にとっては、たまたま久光を介して後見職になっただけであり、慶喜としては久光を恩人として遠慮しなければならないような制約を受ける筋合いはないという発想からです。

将軍に就任した後でもあくまでも自分の世界が守られた上での将軍職であったため、倒幕軍に包囲され、命の危険に晒されるくらいならいっその事幕府そのものを無くしてしまえばいいという発想でした。当然、乗り気でなかった鳥羽・伏見の戦いも、これ以上部下の反対を押し切ってまで戦いを避け続けることは自分の命の危険につながりかねないと判断したから仕方なく戦の指揮を務めたのです。また大阪城包囲の危険にさらされた時には手段を選ばず自分を守ろうとしてとった行動が、開陽丸を勝手に出港させた形での江戸への脱出でした。

江戸へ帰着後すぐに寛永寺で謹慎生活に入ったのもこれ以上自分を危険にさらさないためであり、明治時代以降、自宅周辺に住み、窮状を訴えるかつての幕臣に対して突き返したのも、かつての幕臣と関わることで自分の生活に支障をきたすのを避けるためだったからです。自分の世界の邪魔をするものはことごとく排除してきた慶喜ですが、自宅近くに開通した鉄道においても同じでした。汽車の音がうるさいということで、自分の世界の邪魔になる存在を避けるために引っ越しまで行ったのです。下手の横好きと言われた写真投稿もそうでした。撮影技術を上げるのではなく、自分が楽しいため、撮影したものを投稿し続けていたのです。

慶喜の個人主義が倒幕を成功させ、明治新政府への魁となった

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慶喜の徹底した個人主義が、徳川幕府260年に終止符を打つ結果となり、初めは不利であった新政府軍の明治政府樹立につながったのです。また旧幕府側のトップである慶喜は明治以降も徹底して趣味に走ったため、政権を奪取するのではと疑われることもありませんでした。慶喜の自分を守り通す性格がそのまま徹底抗戦を避ける結果となったのは、奇遇としかいいようがありません。

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