幕末日本の歴史江戸時代

江戸時代では珍しい個人主義者「徳川慶喜」の人物像をわかりやすく解説

冷淡かつ無責任な人物として評価される徳川慶喜とは?

徳川慶喜が無責任な人物と評される根拠として、鳥羽・伏見の戦いでの敵前逃亡が挙げられています。慶喜の大政奉還で政権を返上することによって薩摩長州の倒幕の大義名分を無くすことで、戦いを避けようとしましたが、倒幕派のクーデターによる王政復古の大号令によって、樹立された新政府と鳥羽・伏見の戦いに臨むことになりました。兵を挙げた慶喜は大阪城で指揮を執りましたが、新政府軍の最新兵器に苦戦させられていたことから、大阪城から幕府の軍艦で脱出してしまったのです。

この時、新政府軍5千人に対し、幕府軍はその3倍の1万5千人であり、まだ大阪城が新政府軍に包囲されていたわけではありませんでした。仮に鳥羽・伏見に敗戦しても、籠城すれば、勝ち目はあったでしょう。それは幕府軍には江戸に軍勢もあり、援軍として馳せ参じる藩も少なくなかったのです。また新政府軍が錦の御旗を掲げたことにより幕府軍を賊軍として精神的に追い詰めたとしても、回避策はありました。大阪城を脱出して江戸に帰るのではなく、それこそ朝廷に向かって得意のディベートで説き伏せることが出来たはずです。

「慶喜の敵前逃亡はたまたま手段を選ばなかった結果であり、日本の危機を回避した功労者である」という評価に対しては、それならば鳥羽・伏見の戦いそのものを防ぐことこそ大切ではなかったかと反論されるほどでした。大政奉還をした上で戦いに臨む以上、敵前逃亡は筋が違いすぎるといった評価です。

愚鈍であるイメージを持たれた徳川慶喜とは?

慶喜には聡明ではなかったとされる様々なエピソードがあります。代表的なものに徳川宗家の上座に座るハプニングが挙げられるでしょう。明治時代に入り、徳川家の集まりがありました。この時慶喜は隠居の身であり、当主ではなくなっています。しかし平然と徳川家当主が座る上座に座っていたのです。しかも当主の徳川家達に直接席を移動してもらうように促されるまで気が付かなかったといわれています。また明治になって慶喜は潤沢な生活資金を元に、様々な趣味に没頭していました。その時その周辺に住んでいたのは生活に困窮していたかつての幕臣たちでした。幕臣が慶喜に面会を申し入れたときも、全て断っていたほどです。そんな慶喜が迷惑がって住居まで引っ越したのは、開通したばかりの鉄道の騒音や煙によるものでした。

下手の横好きとされるエピソードもあり、慶喜は趣味の一つとして、写真撮影したものを当時の写真雑誌に度々投稿するも、評価は散々であったということです。今の時代においてもプロカメラマンの加納典明氏も酷評していたほどでした。ここからわかることは、人の評価から撮影の技術を上げようとするのではなく、ひたすらに投稿し続けていることは学習能力に欠けているのではないかと言われています。

徳川慶喜とはこういった人物だった

image by PIXTA / 42841087

慶喜についての評価、すなわち家康の再来と言えるほどの優秀な人物、その一方では敵前逃亡の無責任者、さらには写真投稿で酷評を得ても投稿を続ける学習能力のなかった人物や、周囲の空気が全く読めない人物などいろいろとある中でどれが本当の慶喜なのか未だに定着していません。本当はどのような人物であるのかを知るにおいては、明治以降の慶喜にそのヒントがあるのです。そこでまず、慶喜がいろいろと考えた上で幕末日本を導いた場合を想定します。

そこには慶喜の大政奉還に対する思い、鳥羽・伏見の戦いでの思い、寛永寺で謹慎したときの思いなど様々な思いが巡るはずです。明治に入っての余生が始まったのが30代ですので、自分の思いを何らかの形で綴る気力や体力はあった筈でした。あるいは敵前逃亡せざるを得なかったその背景や心情を文字の形で吐露したことでしょう。少なくとも島津久光や摂政などに対していろいろと論破できたほどの人物だからです。そのまま曲解されたままで終わることはできなかったでしょう。

しかし実際には今までのことに関しては全く日記などに残していませんでした。これが慶喜に対する評価が定まらないことになったのですが、実は文面に残していなかったことこそ、慶喜の真の姿を表しているのです。

慶喜の行動は徹底した個人主義による自己愛によるものだった

慶喜は稀にみる日本人離れした思考回路を持っていたのです。男子に恵まれない徳川の家系の中で類まれに、男子に恵まれた水戸徳川家の七男といった立場から生まれた徳川家の中で勝ち残る生存本能が慶喜をそう駆り立てたのかもしれません。幼少から学問に秀でていたため、父である斉昭公の目にすぐに止まり、七男でありながら水戸家に大切に育てられます。この頃から数多くの兄弟の中で自分が大切にされ続けるには、藩校で学問を修め、輝かしい評価を得るしかないといったハングリー精神が生まれてきたのです。

徹底した自己愛がナルシストをもたらし、学問で秀でることで、名声を勝ち取ることを喜びとするようになります。武家のヒエラルキーの中でも水戸徳川家といったトップレベルの中にいたため、周囲に忖度する必要がありませんでした。さらに第12代将軍家慶に認められ、御三卿の一つである一橋家の跡取りとなったことがさらに、個人主義をエスカレートさせたのです。

慶喜の行き着く先は誰にも邪魔されない自分の世界の確立だった

徹底した自己愛、そしてそこからくるナルシストとして求めた世界は誰にも邪魔されない自分だけの空間であり世界でした。慶喜にとっては豊富な趣味とはすなわち、自分の世界を広げるものであったのです。反対に将軍に就くことで、自分以外の世界に心身を削られてはたまらないという思いがあったのでした。将軍に付く前に安政の大獄で謹慎させられますが、通常の大名と異なり、慶喜としては謹慎は誰にも邪魔されることなく、自分の世界を広げることができるまたとないチャンスだったのです。

本来なら謹慎が解かれた後に、政権を握ろうとするのが普通の大名ですが、慶喜にはそういった欲望は一切感じられませんでした。それが他の支援者にとって「謙虚」の姿として映ったのです。まさに日本人的な発想からくる慶喜への評価でした。

慶喜の性質を見抜いていた人たち

慶喜は日本人離れした性格をもち、ディベートが得意であったため、イギリスやフランスから外交のエキスパートとして高く評価されるほどでした。しかしこのディベートも、自分の世界を守るための理論武装に過ぎなかったのです。多くの大名が慶喜のディベートに直面することで頭脳聡明な印象を受け、次期将軍としての期待感を寄せる中で、慶喜の徹底した個人主義を見抜いていた人たちがいました。それは大老の井伊直弼や第13代将軍家定の生母である本寿院を始めとする大奥など、南紀派と呼ばれた人たちだったのです。

井伊直弼は慶喜は幕政を司る将軍の器にあらずと判断しており、徹底して将軍職から遠ざけようとしました。井伊直弼の家系は井伊直政の代より徳川家に仕えており、井伊直弼はどの大名よりも徳川将軍家の問題について考えてきたのです。それゆえ慶喜と話した際に日本の社会には珍しい程の個人主義者であることを見抜いていました。

次のページを読む
1 2 3
Share: