室町時代戦国時代日本の歴史

戦国武将の【かっこいい家紋】を集めてみたー意味も解説

見た目が優美で最も縁起の良い家紋【鶴丸】

鶴丸の図柄

JALのシンボルマーク

白鶴酒造のシンボルマーク

鶴をモチーフとして丸くかたどった家紋。何かに似てると思いませんか?そう、デザイン的には日本航空(JAL)白鶴酒造のシンボルマークと同じなのです。ちなみにJALと白鶴のマークの由来は以下の通り。

ロゴマークの「鶴」は、大空に美しく舞う鶴の姿をモチーフにしており、また、古くより日本人の気高い精神性やきめ細やかな情緒を表現したもので、(中略)挑戦する精神・決意、すなわちJALの原点・初心をあらわしている。

引用元 JAL公式ウェブサイトより

この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示している。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えている。

引用元 白鶴酒造公式ウェブサイトより

いずれも現代風な【優美さ】【力強さ】【親しみや気高さ】を表現しており、日本らしいシンボルマークだと言えるでしょう。

では、家紋の場合はどうでしょうか?この家紋を用いていたのは森長可、蘭丸公家の日野氏など。鶴は古来から長寿のシンボルであり、縁起の良い鳥だとされていますね。当然のごとく家紋に用いられることは自然な話です。しかし、鶴丸の家紋を用いている武家は思ったほど多くはありません。

実は森氏は、武家の神様ともされる源義家に連なる由緒ある家柄で、特別に鶴丸の使用を許されていました。【鶴】は源氏に縁が深いシンボルですし、源頼朝とゆかりがある鎌倉鶴岡八幡宮の神紋も【鶴丸】なのです。そういった意味で血統の正当性を示すために【鶴丸の家紋】を用いていたのでしょうね。

滅亡した平氏の系譜をつなぐ家紋【揚羽蝶】

揚羽蝶の図柄

備前蝶の図柄

【揚羽蝶(あげはちょう)】の家紋は、元々はその見た目の優美さから平安貴族たちが好んで使っていました。平安時代末期になって、初めての武家政権ともいえる平氏が台頭し、平清盛を筆頭として朝廷の要職を独占するようになると、今度は貴族化した平氏一族が揚羽蝶の家紋を使い始めたのです。

結局、平氏は壇ノ浦で滅亡しますが、平氏の血統を受け継ぐ武士たちは全国に散らばり、揚羽蝶の家紋を引き継いでいきました。実は織田信長も別紋で使ってましたし、佐野氏、大道寺氏、美濃池田氏なども有名ですね。

しかし実は、美濃池田氏の血統は源氏でした。なぜ平氏でもないのに揚羽蝶の家紋を使っていたのか?答えは織田信長との関連性があったのです。戦国の頃、池田恒興は信長と乳兄弟でした。そして小姓の頃からずっと信長に仕え、数多の戦いに従軍し、全幅の信頼を置かれていたのでしょう。「お前は家族も同然だ」という思いも込めて平氏由来の揚羽蝶の家紋を恒興に与えたのでした。

池田恒興の曾孫の光政の時代になると、美濃池田氏は多くの分家を作り、西国の大大名となっていました。備前(現在の岡山県)~因幡(鳥取県)に及ぶ広大な領地を同族で占めることとなり、それに伴って地位確立と差別化を図るため、備前の池田本家は、分家とは異なる蝶の家紋を創設しました。それが【備前蝶】という新しい家紋だったのです。

戦国武将のかっこいい家紋【その他編】

image by PIXTA / 23809011

かっこいい家紋。【植物編】、【動物編】とご紹介してきましたが、次に、そのいずれにも属さない種類の家紋をピックアップしてみます。なかなか思い切った凝ったデザインが特徴的なので、これは注目ですよ。

義に生きた石田三成の旗印【大一大万大吉】

大一大万大吉の図柄

石田氏の正式な家紋は【九曜紋】といって、あたかも太陽を模したようなデザインなのですが、この【大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)】は文字をうまく構成して一体としていますね。関ヶ原の合戦の旗印として、この紋を用いていたようです。

一説によれば、石田三成の先祖だとされている相模国(現在の神奈川県)石田郷の武士【石田為久】が源平争乱の最中に木曽義仲を討ち取ったとされており、その際に使っていた旗印が【大一大万大吉】だったと伝えられています。

その意味は、「一人は万人のために、万人は一人のために尽くせば、天下は幸福に満ちるだろう」となり、One for all, All for oneの精神で万民のために尽くすという、いかにも三成らしい旗印だといえるでしょう。しかし、彼曰く悪の権化だったはずの徳川家康に返り討ちにされ、志半ばで倒れた三成の義の心は、現在まで伝わっているのかも知れませんね。

他にはない完全オリジナルの家紋【二頭立浪】

二頭立浪の図柄

下克上の代名詞、戦国の梟雄として知られた美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名【斎藤道三】の家紋。大きな波がしぶきをあげて、あたかも押し寄せてくるようなデザインは、彼独特の感性によるものでしょう。それもそのはず。この【二頭立浪(にとうたつなみ)】を使っている武将は道三しかいません。なぜなら彼自身が考案したからです。

波をモチーフとした家紋は、実は他にも多く存在します。しかし、この二頭立浪ほどダイナミックで躍動的な紋は他にはなく、道三がいかに只者ではなかったかがよくわかるのです。押すべき時は押し、引くべき時は引く。彼の多彩な軍略をよく表しているといえるでしょう。

また道三は、主家の斎藤氏を乗っ取ってからこの家紋を使い始めています。自分が新しい主であるということを周囲に宣言する目的があったのでしょう。

世が世なら名君だったかも?【丸に違い鎌】

丸に違い鎌の図柄

この家紋は一見、交差する鎌に迫力があって恐ろし気な感じがしますが、実は諏訪大社信仰の表れだといわれています。御柱となる巨木に薙鎌を打ち込む【薙鎌打ち】を行い、五穀豊穣や無病息災を祈願する神事となっており、その薙鎌を家紋にあしらうことで農業の繁栄と武運を祈るというものでした。

この家紋を用いていたのは小早川秀秋。関ヶ原で西軍を裏切り、卑怯者の汚名を着せられた武将でした。しかし、そんなダーティなイメージとは裏腹に、実は農業政策に重きを置き、内政を重視した名君としての一面もありました。

彼の父は杉原家定といい、武士といっても半農半士の身分で、ただの農民といっても差し支えないほどの貧乏でした。ところが、親戚の羽柴秀吉がどんどん出世するに従って身分が引き上げられていきます。末っ子の秀秋も、中国地方の名族小早川家を継ぐために養子となったのでした。

しかし小早川家の家紋は、元々は何の変哲もない巴紋でしたが、秀秋はわざわざ【違い鎌の家紋】を持ち込みました。豊臣家の桐紋の使用も許可されていましたが、それすら使わず、鎌の紋にこだわったのです。

父親は農民同然の出自ですから、秀秋自身も、稲作や農業の重要さや大変さを聞かされていたことでしょう。「農民が安らかであるからこそ武士も存在できる。」彼はそんな思いで五穀豊穣を祈念するために、わざわざ鎌の紋を用いたのではないでしょうか。秀秋の領国だった備前では、たった2年の治世だったにも関わらず、農業政策を重視した善政を敷いていたということです。

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明石則実