室町時代戦国時代日本の歴史

城を水浸しに!?想定外の水攻めに落城した備中高松城の戦いと清水宗治の潔い最期

敵味方が見守った宗治の切腹

和睦成立を受けて、城内の宗治のもとには最後のはなむけとして、秀吉から酒と肴が贈られました。宗治はこれで家臣たちと別れの宴を催し、湖と化した水上へと小舟で漕ぎ出したのです。

敵味方が固唾を飲んで見守る中、宗治は船の上で舞を披露し、家臣の介錯によって切腹を遂げたのでした。46年の生涯でした。

辞世の句は、「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

「今こそ浮世(この世)を渡りあの世へ行こう 武士としての名を、松に苔が付くほどの長きに渡り残したいものだ」という意味がこめられています。宗治の武士としての心意気を感じさせますよね。

秀吉もまたこの切腹劇を目にしており、「まことに武士の鑑だ」と賛辞を惜しまなかったそうですよ。このことで、武士が名誉の死を遂げる場合には切腹、という条件がつくようになったのだそうです。

こうして、備中高松城の水攻めは終結を迎えたのでした。

秀吉の「中国大返し」へとつながった戦い

宗治の切腹を見届けると、秀吉は水攻めを解き、京都に向かって軍を返しました。そのスピードはすさまじいもので、あっという間に京都へ戻ると、明智光秀を打ち倒してしまったのです。これが後に「中国大返し」と呼ばれる秀吉の偉業となりました。

一方、毛利側に本能寺の変が伝わったのは、秀吉が撤退した後だったそうです。逃げるように去っていく秀吉軍に対し、吉川元春などは追撃を主張しましたが、すでにこの時宗治は自刃を遂げており、小早川隆景は追撃を止めたと伝わっています。

秀吉は宗治の最期をずっと覚えていたようで、後に息子・景治(かげはる)を家臣として召し抱えようと誘いをかけたそうです。しかし景治は断り、毛利に仕え続けることを選びました。その忠義に対し、毛利輝元は太刀を与えて褒めたたえ、小早川隆景は自分の名から「景」の字を与えたのでした。

「武士の死=名誉の切腹」の礎となった宗治

image by PIXTA / 15388901

備中高松城の戦いは、前代未聞の水攻めという作戦が取られたことで有名になっただけではなく、宗治の切腹が武士の名誉の切腹の第一弾となったことでもエポックメイキングな戦いとなりました。これで宗治の忠義は広く知れ渡り、後に名を残すこととなったのです。まさに辞世の句どおりになったことは、あの世の宗治にとっては本望だったのでしょうね。

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