官兵衛の秘策・水攻め
官兵衛の言い分はこうでした。
「水のせいで城が落とせないなら、逆手を取って、水で攻めてしまえばいいのです」
湿地帯のせいで進軍が阻まれるなら、その湿地すら水で覆ってしまえばいいというのが、官兵衛の意見でした。そして城を完全に孤立させて士気を下げ、開城へと持っていくというプランだったのです。兵糧攻めの水攻めバージョンというべき作戦でした。
官兵衛を信頼していた秀吉はすぐさま作戦に着手し、すぐに堤防の工事を始めました。城近くを流れる川のそばに、全長約3km、高さは約7.2mもの堤防をわずか12日間で完成させると、川の水を引き込み、城を湖に浮かんだ孤城のような形にしてしまったのです。
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敗北の予感と宗治の覚悟
水の上に浮かぶ孤城となった備中高松城に対し、敵も味方も近づくことはできず、もちろん城内の兵たちも身動きが取れなくなってしまいました。ただ時間だけが過ぎていき、兵糧を断たれた兵たちの士気は落ちていきます。これこそが秀吉・官兵衛の狙いで、やがて両軍の間には講和というキーワードが流れ始めました。しかし、講和には条件がありました。その中には宗治にとって厳しいものも含まれていたのです…。
秀吉と官兵衛の狙いが的中
孤立した備中高松城に対し、誰もが近づくことができなくなりました。当然、援軍としてやってきた毛利方の軍勢も、ただ状況を見守ることしかできなくなってしまったのです。
それは城内の宗治たちも同様でした。まさか水攻めにされるとは思ってもいませんでしたし、ただ城内に缶詰め状態になるしかなかったんですね。状況は好転せず、無駄に食料だけが減っていくため、兵たちの士気はみるみるうちに下がっていってしまったのです。
当然、敵である秀吉軍も攻撃を仕掛けられるような状況ではなくなってしまったのですが、これが秀吉と官兵衛の狙いでもありました。
水攻めにすることで城内の士気を下げ、外部からの補強を断ち、なおかつ自分たちは兵力を温存することができたからです。いつ何が起こるかわからない戦国時代ですから、兵力は常に保っていたかったんですよ。
講和の絶対条件は「切腹」
秀吉側は戦力を保持したいという思い、対する毛利側は宗治ら城兵の命を助けたいという思いがありましたから、講和交渉が密かに始まりました。
毛利側は優秀な宗治を失いたくないという一心で、五国(備中、備後/広島県東部、美作〈みまさか〉岡山県東北部、伯耆〈ほうき〉/鳥取県中西部、出雲/島根県東部)を割譲し、その引き換えに城兵の命を保証するという条件を申し出ました。
しかし秀吉側は、五国の割譲に加えて城主の宗治の切腹を求めてきたのです。
困った毛利側は、宗治に使者を送り、何とか自ら降伏してくれと頼みました。それなら秀吉側も何らかの配慮をしてくれるという算段があったのかもしれません。
ところが、宗治は「毛利側と城兵の命が助かるなら、自分は喜んで死ぬ」と、降伏を拒否したのです。
これで、宗治の切腹は避けられない状況となってしまいました。
切腹の手本となった宗治の最期
味方からの降伏勧告を拒み、城兵の命と引き換えに自分の命を差し出すことに決めた宗治。その舞台は、敵味方が見守る水の上でした。見事な散り際に、秀吉すら称賛の言葉を惜しまなかったと言います。ただその一方で、京都では大変なことが起きていました。秀吉が講和を急いだ理由も含め、備中高松城の水攻めの顛末をご紹介したいと思います。
和睦を急いだ秀吉
毛利側と秀吉側の和睦交渉が行われていたころ、京都では一大事件が起きていました。
信長が、明智光秀によって本能寺で討たれてしまったのです。「本能寺の変」ですね。これが天正10(1582)年6月2日のことでした。
この知らせは、3日の夜から4日未明にかけて秀吉に伝わったといいます。秀吉はこのことを毛利側に知られないように、和睦を急ぐことにしたのです。このため、4日の午前中には五国の割譲+宗治の切腹から三国の割譲+宗治の切腹でいいという条件に替え、講和を成立させたのでした。
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