- 1.徳川幕府が重要視した身分制度の確立
- 1-1.厳格な身分制度をもって反乱の芽を摘むこと
- 1-2.厳格な身分制度を正当化するための学問【朱子学】
- 1-3.武士社会に浸透していく朱子学の考え方
- 2.土佐藩における武士階級【上士と下士】
- 2-1.土佐国の風土とは?
- 2-2.江戸時代初期に山内氏が入る
- 2-3.身分制度を巧みに利用する土佐藩
- 2-4.困窮を極めていく下士たち
- 3.下級武士の台頭【藩政改革と有能な人材の登用】
- 3-1.幕藩体制の動揺
- 3-2.藩政改革と藩校の存在
- 3-3.土佐藩における下士の台頭【土佐勤皇党】
- 3-4.藩政の中心となった土佐勤皇党
- 3-5.土佐勤皇党の壊滅
- 4.土佐藩が輩出した偉人達
- 4-1.高知を代表する大偉人【坂本龍馬】
- 4-2.土佐藩政を支え、明治政府でも活躍した人物【後藤象二郎】
- 4-3.自由民権運動の指導者【板垣退助】
- 4-4.龍馬とともに新しい時代を切り開こうとした【中岡慎太郎】
- 5.土佐藩・薩摩藩・長州藩。下級武士が活躍できた共通点
- 5-1.江戸時代を通じて藩主の転封がなかったから
- 5-2.地域密着型の家臣団
- 5-3.英邁な藩主やトップに恵まれたこと
- 「有能であれば出身や身分は関係ない!」という考え方
この記事の目次
1.徳川幕府が重要視した身分制度の確立
まず土佐藩を語る前に、江戸時代における身分制度や武士の在りようについて解説してみたいと思います。1603年、徳川家康が征夷大将軍となって開かれた徳川幕府。実質的に戦国時代を終わらせたわけですが、、それと同時に、二度と戦乱の時代が来ぬよう周到な計画をもって成立した政権であったともいえるでしょう。
1-1.厳格な身分制度をもって反乱の芽を摘むこと
江戸時代以前にも身分制度というものは存在していましたが、それは非常に曖昧なもので、農民身分の者が武士となったり、民衆レベルで一揆を起こして支配者に挑戦するなど、「身分の違い」というものの決して越えられない壁ではなかったのです。豊臣秀吉の出世などが良い例ですよね。
そこで徳川幕府は、全体的に「士農工商」という身分制度を整え、それぞれの身分の中で相応のことを為すよう制度化しました。武士の次の身分が農民となっているのも、いくら生活が苦しくても不満を持たせないようにするため。「商人や職人たちよりも、お前たちのほうが偉いんだぞ!」という概念を持たせるという巧妙な制度だったのです。
たしかに江戸時代は百姓一揆が頻繁に起こっているのですが、それは農民の反乱などではなく、ゼネストのような労働争議の一種だったともいえます。
もちろん生まれてから死ぬまで、同じ身分の中で生きなければならないことが鉄則とされたため、江戸時代以前には越えられた身分の壁も、幕府の身分政策によって越えられない高い壁となったのです。
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1-2.厳格な身分制度を正当化するための学問【朱子学】
徳川幕府は、この厳格な身分制度を政策のみならず、学問における根拠や裏付けとしても用いました。それが朱子学(儒学)だったのです。
幕府に重用された儒学者の林羅山は、「上下定分の理」を打ち出し、「天は上にあり、地は下にある。すなわち上下関係が発生するのは自然の摂理である」と唱えました。
たしかに秩序のある社会を形成するために上下関係は欠かせぬものであり、なおかつ身分制度を正当化できる大義名分とすることができるのであれば、これだけうってつけのものはありません。幕府が飛びついたのも無理からぬことだったでしょう。
1-3.武士社会に浸透していく朱子学の考え方
この朱子学の考え方は、武士の世界にも当然のように受け入れられ、武士の中にも厳格な身分制度は出来上がっていきます。
「上の身分の者が絶対である」「主君のために家臣が命を投げ出すのは当然のこと」といった忠節こそが美徳だと捉えられました。禄をもらい、上下関係に縛られる武士たちは徐々にサラリーマン化していったのでした。
ゆくゆくはこの考え方こそが、「謙虚さ」や「礼儀正しさ」といった日本独特の美徳観となるのですが、江戸時代の頃には、ひたすら身分制度の維持のために使われた学問だったということはいえるでしょう。
2.土佐藩における武士階級【上士と下士】
全国の諸藩の中で、もっとも藩士の身分階級の差が激しかったのは実は土佐藩(現在の高知県)でした。坂本龍馬や武市半平太、岩崎弥太郎などの人物を輩出した藩だったのですが、そこではどのような階級制度があったのでしょうか。
2-1.土佐国の風土とは?
土佐国は、四国をまたぐように横たわる四国山地の南側にあり、古来より交通の便も悪く、僻地だとされてきました。畿内からさほど距離は離れていないのに、海と山で遮断された「超」が付く田舎だったのです。
そのため土佐は平安の昔から流刑地として利用されたり、紀貫之の「土佐日記」に代表されるように国司が赴任するには不人気な土地だったようですね。
戦国時代になると外界から遮断されているだけに、国を統率するだけの有力者がいませんでした。ようやく長宗我部氏が土佐を統一し、そこにいた在地の武士たちも長曾我部氏の家臣となっていたのです。
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2-2.江戸時代初期に山内氏が入る
しかし長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで敗れて改易されると、その後釜として山内氏が乗り込んできました。長宗我部氏を慕う旧臣たちは、新しくやってきた領主になかなか従おうとせず、各所で反乱や小競り合いを繰り返すようになりました。
業を煮やした山内一豊は、そんな長宗我部旧臣たちを快く思わず、新規の家臣を上方で採用したり、不穏な動きをする者を取り締まったりしました。しかし元々が小大名だった山内氏にとってはやはり家臣の絶対数が足りず、長宗我部旧臣たちの大量雇用に踏み切ったのです。
ここに山内氏直臣と長宗我部旧臣のコラボという不思議な関係が出来上がったのですね。
2-3.身分制度を巧みに利用する土佐藩
しかし、山内氏直臣と長宗我部旧臣との間には厳然たる格差がありました。「上士」「下士」という区分けがなされ、上士は藩の重要なポストを独占し、下士はあくまでその配下に過ぎず、出世できたとしても下級役人が関の山でした。
下士の中でも功績があった家は白札といって、上士格待遇を与えられる場合もありましたが、ほとんどが生まれた出自だけで差別され、虐げられたのです。
土佐藩は、この制度をうまく利用し、下士に軍事要員としての役目を与えるいっぽう、新田開発をさせて藩の収入を増やすことに熱心となります。表向きは武士として帯刀しているものの、実際の暮らし向きは農民とほとんど変わりはありませんでした。