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沖縄返還の歴史と米軍基地【今いったい何が問題になっているのかを探る】

「沖縄県」といえば、いったい何を想像する方が多いでしょうか?ビーチリゾート?琉球料理?米軍基地?もしくは明るくおおらかな県民性?日本の都道府県の中で、ここまで多様性のある県はなかなか存在していないのではないでしょうか。沖縄の歴史をひも解けば、そこには日本本土と切り離されているがゆえの負の歴史も垣間見えてきます。そして今現在、問題になっている米軍基地問題を絡めてスポットを当てていきましょう。

太平洋戦争までの沖縄

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沖縄には古来から、日本とは違った歴史や文化や習慣などが根付いていました。元から日本の領土というわけではなく、歴代の王朝が代々沖縄を支配し、経済的にも完全に自立していた独立国だったのです。では、なぜ日本の領土となったのか?まずはそこから解説していきましょう。

最盛期を迎えた尚氏琉球王国時代

琉球(沖縄)を中世から近世にかけて実質支配していたのは尚氏を王族とする琉球国でした。第一次尚氏と第二次尚氏が存在していましたが、第一次尚氏は40年足らずの王朝に過ぎず、前の王朝を滅ぼして尚氏を継承した家臣筋の尚円王が即位した時点から第二次尚氏が始まることになるのでした。

それまでも琉球は明(中国)と冊封関係にあり、定期的に貢ぎ物を調達することによって領土の安全を確保していたのですが、この第二次尚氏の時代から更にその傾向は強くなることに。結果的に琉球にとって朝貢による経済的負担は年々大きくなることになり、領民からの年貢による収入でも足りなくなるという状況になっていたのです。当時は中国の属国であったことがうかがえるわけですね。

収入減が足りないのであれば搾取できる土地を増やそうと、尚氏は外征政策に出ることに。奄美大島や喜界島などが琉球国によって制圧されたのもこの頃なのです。しかし、それでもなお経済的困窮を拭うことができません。

それを救ったのが、宮古島の島役人が中国から持ち帰ったサツマイモだったのです。17世紀初めには沖縄本島にも広く普及し、琉球の食糧事情を劇的に改善させたのでした。結果、米を年貢として供出しても代用食としてサツマイモが庶民に広く食べられるようになったのでした。経済的にも潤いつつあったこの頃が、琉球国の最盛期だったといえるでしょう。

薩摩藩の琉球侵攻

日本の最南端である薩摩(現在の鹿児島県)の領主「島津氏」は、戦国時代には九州全土を支配するような勢いで隆盛を極めましたが、豊臣秀吉の九州征伐で敗れて薩摩、大隅だけに領土を削られ、続く朝鮮出兵にも経済的痛手を蒙り、さらには関ヶ原合戦で西軍に味方したために財政難の最中にありました。そこで目を付けたのが琉球だったのです。

薩摩藩は琉球に対して高圧的な要求を繰り返し、それが黙殺されるとみるや出兵の準備に取り掛かりました。琉球は明の属国であったために反日意識も強かったのですが、それにもまして薩摩藩の無神経なやり方に我慢できなかったと表現した方が良いのかも知れません。

しかし、あてにしていた明国は動きません。すでに朝鮮での日本との戦いに疲弊し、財政も悪化しており、なにより後に清国の初代皇帝となるヌルハチとの戦いでそれどころではなかったからです。

そうして琉球は薩摩藩の侵攻を受け、屈服させられることに。薩摩藩は強引に奄美大島を割譲させ、琉球国が持っていた貿易の利権を独占し、琉球に代官所を設置して間接支配を幕末に至るまで行いました。またそれによって琉球の独自性が失われてしまったのでした。

琉球処分と日本への同化

江戸時代を通じて、薩摩藩に間接支配されているとはいえ琉球国は依然として存在しており、中国の清朝へもこれまでと変わりなく朝貢を行っていました。しかし明治維新の新しい波は琉球へもやって来たのです。

年号が明治に変わってしばらく後、なおも清朝との冊封関係の続行を願っていた王族の意思を無視するような形で、琉球王だった尚寧を無理やり東京へ連行し廃位させ、日本内地の警察や軍隊を琉球へ送り込んで反抗の芽を潰し、半ば強制的な方法で琉球を日本の領土化としてしまったのでした。これを「琉球処分」と呼びます。

こうして日本に併合された琉球は沖縄県と名を変え、同化政策が取られました。いわゆる王はこれまでの尚氏ではなく日本の天皇であること。また同様に大日本帝国憲法に基づいて選挙権なども県民に付与されました。社会制度やインフラなども整い、太平洋戦争が始まる頃には完全に日本人と同化していたのです。

米軍の沖縄占領と戦後

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こうして日本と同化した沖縄。しかし昭和になって戦争の足音は平和な島にも刻々と近づいていました。太平洋戦争の戦局の悪化に伴って、日本本土を防衛するための捨て石として見捨てられようとしていたのです。

悲惨な沖縄戦

1945年4月、アメリカ軍はいよいよ沖縄へ上陸してきました。防衛していた日本軍の思惑は、アメリカ軍を本土へ近づけさせぬために出来るだけ長期持久をすること。簡単にいえば日本本土の防衛準備が整うまで時間稼ぎをすることでした。

当時の沖縄県民の人口は約60万人。そのすべてを沖縄本島以外に疎開させるのは無理な話で、何より「米兵は鬼畜だ」と教え込まれた県民が、守ってくれるはずの日本軍に従ってついていったのも無理からぬ話だったでしょう。しかし結果は悲惨でした。長期持久を軍の戦略としていたため、「鉄の暴風」と呼ばれたアメリカ軍の砲撃にまともに晒され、多くの県民が犠牲になりました。

なにより悲惨だったのは、「学徒看護隊」「鉄血勤皇隊」のような14~16歳の子供たちでした。彼らは最後まで軍と行動を共にし、戦闘に巻き込まれて多くが亡くなったのでした。

この戦いで民間人だけでも10万人近くが犠牲になっています。

アメリカの統治下に置かれる

太平洋戦争が終わっても、沖縄が日本へ復帰することはありませんでした。アメリカの軍政下に27年もの間留め置かれたのです。その弊害は県民感情だけでなく、実質的にも沖縄県民の負担となりました。

「軍用地の接収」という目的で広大な面積の土地が強制的に取り上げられ、基地が建設されていきました。日本の敗戦から続く朝鮮戦争や米ソ冷戦、ベトナム戦争など、沖縄はアメリカの世界戦略の最前線として重要視されていたのですね。もちろん県民も「島ぐるみ闘争」などを通じてアメリカ側と断固たる闘争や交渉を続け、土地貸借権の値上げ措置を勝ち取るなど不断の努力を続けていたのです。

アメリカ統治時代の沖縄は、外交権や司法権など全て失っており、自治権はあるものの日本との交流も隔絶され、経済基盤もほとんど存在していませんでした。それこそ米軍ありきの沖縄だったのです。そのため度々起きる米兵による犯罪も野放しにされ、ますます県民感情は悪化することになったのでした。

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明石則実