- その切れ味は世界一!~刀~
- 最強の刀その1【鉄砲兼光】
- 最強の刀その2【佐々木小次郎の物干し竿】
- 最強の刀その3【丸目蔵人の来国俊】
- これぞまさに戦場の華!~槍~
- 最強の槍その1【黒田節のモデルとなった日本号】
- 最強の槍その2【本多平八郎忠勝の愛槍蜻蛉切】
- 最強の槍その3【前田慶次の朱槍】
- 最強の槍その4【森長可の人間無骨】
- 独自に進化した新兵器~鉄砲~
- 最強の鉄砲その1【伊達政宗が編成した騎馬鉄砲隊】
- 最強の鉄砲その2【真田丸で活躍した巨大狙撃銃】
- 戦国時代に活躍した武器~番外編~
- 最強の武器~番外編~その1【西洋のものより強力な和弓】
- 最強の武器~番外編~その2【最もコスパがよいのは石】
- 本当に最強だった武器は?
この記事の目次
その切れ味は世界一!~刀~
平安時代の頃から俗にいう「太刀」というものが生まれ、同時に各地で興った武士の成長と共に進化していきました。良質な砂鉄を産出した伯耆の名工「安綱(やすつな)」によって、日本刀らしい反りのある美しいフォルムが生まれたらしいのですが、戦国時代においても主要な武器として数多く製造されました。
最強の刀その1【鉄砲兼光】
鉄砲に対抗できる刀というと、アニメ「ルパン三世」に出てくる石川五エ門の愛刀【斬鉄剣】が思い起こされますが、実はアニメの世界ではなく現実にそんな刀が存在しました。さすがに鉄砲の弾を切ったというわけではありませんが、鉄砲兼光と呼ばれている刀がそれなのです。実は二種類存在していました。
鉄砲切り兼光(雷切ともいわれる)は、上杉謙信愛用の刀で、川中島合戦の折に武田の陣へ攻め入った際に、戦場にいた武田鉄砲隊の兵を一刀両断のもとに真っ二つにしたそうです。兜や鎧、鉄砲もろとも。だとすれば、すごい切れ味ですね。
そしてもう一種は、越前朝倉氏の家臣山崎長徳が愛用していた鉄砲兼光。一向一揆との戦いの中で、これまた鉄砲を持った敵兵を鉄砲もろとも切ったそうです。長徳は、主家滅亡後に前田家に仕え、家老になったとのこと。
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最強の刀その2【佐々木小次郎の物干し竿】
物干し竿と聞けば、めちゃくちゃ長い槍のような大刀を想像するかも知れませんが、これは安土桃山~江戸初期の剣客だった佐々木小次郎の愛刀のことですね。
小次郎は安芸の毛利氏に仕えた後、全国を剣術修行のために遍歴し、ついには「燕返し」という秘技を編み出したと言われています。そしてあまりに剣技が素晴らしかったため小倉藩の剣術指南役としても活躍していました。
彼の駆使した「燕返し」は、相手の刀の長さよりも遠い距離から下から上に跳ね上げながら斬る刀法でした。基本的には上から下への剣撃よりも、下から上へ攻撃するほうが相手も油断するし防御しにくいのです。だからこそ誰よりも長い刀「物干し竿」が必要だったのですね。
巌流島の決闘で小次郎が宮本武蔵に敗れた時の年齢は60代だったという説もあります。もし小次郎がもっと若ければ、勝負の行方は全然違ったものになっていたかも知れませんね。
最強の刀その3【丸目蔵人の来国俊】
この刀、鎌倉時代~戦国時代にかけてかなり多く製造されました。ですので一般的な刀の部類には入るのですが、これを愛用していた丸目蔵人という剣豪がスゴイ人だったのです。蔵人は九州肥後の人で、合戦に明け暮れていた九州にあって新陰流の免許皆伝を得、タイ捨流剣術を創始し、甲冑を身に着けた武者を相手にするための、まさに実戦的な剣術を編み出したのでした。
京に上って「兵法天下一」の看板を掲げ、名だたる剣士たちに真剣勝負を挑もうとしますが、蔵人のあまりの達人ぶりに誰も名乗り出ようとしない有様。これを聞いた剣聖上泉信綱は「殺人太刀、活人剣太刀」の免許状を蔵人に与えたそうです。
とにかく剣撃だけではなく蹴りや投げ技、果ては目つぶしまでも駆使した何でもアリの剣法は、まさに格闘術といっても過言ではないでしょう。いかにも戦国時代の戦いを如実に表していますね。
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これぞまさに戦場の華!~槍~
よくドラマや映画の合戦シーンなどで、鎧兜を付けた武者が長太刀を振りかざして戦っているシーンがありますよね?でもあれって本来の合戦では現実的ではないのです。合戦というものは実は接近戦ではなく、ある程度距離を置いて戦うのが一般的でした。だから弓や鉄砲、槍などが活躍できたのですね。中でも槍は特に重要で、戦国時代には多くの名物が生み出されました。
最強の槍その1【黒田節のモデルとなった日本号】
福岡に伝わる民謡「黒田節」の一節。あまりにも有名ですよね。
酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士
ある時、酒好きの大名福島正則の元へ、黒田長政の使者母里太兵衛が遣わされた時のこと。既に酔っぱらっていた正則、しきりに太兵衛に酒を勧めます。しかし役目をわきまえていた太兵衛は褒美をくれると言われても一向に応じようとしない。ついには「黒田の者はこれしきの酒も飲めないのか!」と癇癪を起した正則に対して、ついに太兵衛は盃を受けたのでした。あまりの豪快な飲みっぷりに正則は、秀吉から下賜された日本号を褒美に取らせたのでした。
そして母里太兵衛は続く朝鮮での戦いにおいても日本号を振りかざして大きな武功を挙げたとのことです。