室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代に大活躍した【最強の武器11選】

最強の槍その2【本多平八郎忠勝の愛槍蜻蛉切】

先ほどの日本号と並び称せられる天下三槍の一つですね。穂先にとまった蜻蛉(とんぼ)がそのまま真っ二つに切れてしまったという逸話から蜻蛉切と名付けられ、徳川家康の天下取りを支えた本多忠勝の愛槍としてあまりにも有名です。

この槍、長さは6メートルを超える長大なもので、この槍を持って殿(しんがり)を務めた本多忠勝の見事な戦いぶりに、武田方からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛の声が上がったそう。しかし彼の晩年には、わざと柄を短く切り取り、「道具というものは、己の力に応じたものでなければならぬ」と語ったとのこと。優れた武将は自分の力量をよく知っていたのでしょう。

最強の槍その3【前田慶次の朱槍】

前田慶次の活躍は漫画やアニメだけではなく、最上氏と戦った長谷堂合戦においても記録に残されているくらいですし、その堂々たる体躯は戦場においても畏怖の念で見られていたことでしょう。

そんな慶次が使用していた朱槍は平三角造直槍といい、長さは3メートルを超え、これを軽々と振り回して戦場を疾駆している光景が目に浮かびますね。そもそも朱槍は大なる武功を示した者にしか許されていないものですので、慶次がいかに優れた槍使いであったかが伺い知ることができますね。ちなみに柄の部分が朱色ではなく、穂先の部分にアクセント的に朱を入れているような感じになっています。

最強の槍その4【森長可の人間無骨】

槍のカテゴリーで最後に紹介するのは、猛将森長可が操った戦慄の槍「人間無骨」ですね。語源は「人間の骨など無きに等しいほどの切れ味」という意味になるのですが、実際に長可は、この槍を使って27もの首級を挙げ、信長ですら驚嘆したといいます。長可の異名は「鬼武蔵」。異名にたがわぬ名槍を持っていたということなのですね。

槍の表首には「人間」そして裏には「無骨」と銘が掘られ、取った首を槍の穂に刺して歩いていたところ、あまりの切れ味に首がそのまま突き抜けてしまったという逸話すらあるのです。

ちなみに織田信長は人間無骨の刀バージョンを持っていました。家臣の差している太刀で罪人を斬ったところ、「骨など無きが如きに斬れる」ということで人間無骨と名付けたそうです。そしてそれを自身の差料としたそうですね。

独自に進化した新兵器~鉄砲~

image by PIXTA / 12975276

16世紀中頃に初めて種子島へもたらされた鉄砲(火縄銃)。戦国の只中にいた当時の日本にとっては、まさにうってつけの武器でした。そして鉄砲が日本中へ伝播していくに従い、鉄砲そのものも進化し、合戦の戦術や戦略までもが変わっていくのでした。

最強の鉄砲その1【伊達政宗が編成した騎馬鉄砲隊】

火縄銃といえばイメージ的には「重い」「長い」「面倒」といったネガティブな面もありますよね。ところが、軽くて扱いやすくて持ち運びも楽だとすれば、これほど優秀な兵器はないのでは?

これを実際に戦術化した武将がいました。伊達政宗ですね。彼は馬上筒という拳銃をちょっと長くしたような短筒を騎馬隊に持たせ、実際に大坂夏の陣で合戦に投入したのです。雑賀出身で鉄砲の扱いに長けた鈴木重朝をプロジェクトリーダーに選び騎馬隊を訓練しました。道明寺の戦いでは、後藤又兵衛がこの馬上筒によって狙撃されたという説もありますね。

しかし鉄砲はやはり鉄砲。遠距離戦では強いものの接近戦となれば途端に弱点を暴露することに。大阪方の真田信繁は、この騎馬鉄砲隊に対して引き付けるだけ引き付けておいてから一斉に攻撃を開始しました。大混乱をきたした騎馬隊はあっという間に総崩れとなり、大坂城へ撤退する機会を与えてしまったとのことです。

最強の鉄砲その2【真田丸で活躍した巨大狙撃銃】

戦国最後とも言われる徳川と豊臣の戦い。俗にいう大坂の陣なのですが、冬の陣の場合はいわば大規模籠城戦という感じでした。そして最も大きな戦いがあり犠牲者が最も多かったのが真田丸での攻防戦だと言われています。

大坂冬の陣図屏風を細かく見ていくと、この真田丸の激戦の様子が伺い知れますね。特にこの時、真田隊が使った鉄砲はとんでもないものでした。通常の火縄銃であれば扱いは一人で十分事足りるのですが、なんと三人がかりで撃たねばならないほど反動の強いもの。いわば威力の高いものだったのです。当時の甲冑であれば簡単に貫通できるし、竹束などで防備しようとしても全くの無駄。

だからこそ徳川方は、わざわざ築山を築いて塹壕代わりにし、地下を掘り進むモグラ作戦という戦術を使うしか手がなかったわけです。それほど真田の巨大狙撃銃が恐かったのですね。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実