日本の歴史

日本刀にまつわる逸話いろいろ【あんな刀やこんな刀も?】

日本刀は、古来からある日本特有のカタナのことですね。そんなのは常識。最近は女性までが老いも若きもゲームアプリなどの影響で「刀剣女子」なんて呼ばれたりもしてますよね。そう、日本刀は美術品や骨董品だけの枠に収まらず世間一般的にも広く知られてきています。でもあまり知られていない日本刀に関する逸話。皆さんどれくらいご存知でしょうか?これからじっくり探っていきましょう。

武将の間でも人気があった名刀~兼定~

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室町時代から江戸時代末期まで、武士の間で大人気だった日本刀ですね。戦国時代には武田信玄の父であった信虎柴田勝家、細川忠興などが所有していたことでも著名です。刀工である兼定の二代目が初めて官職として「和泉守」を授けれられ、これがきっかけで和泉守兼定と呼ばれるようにもなりました。その後、美濃国関と会津の二派が知られるように。

手討ちにした数が刀名の由来?【歌仙兼定】

江戸時代、肥後熊本の地を領した細川家のご隠居様であった細川三斎(忠興)が所有していたことで知られています。細川家当主であった息子の忠利を補佐をする家臣が気に入らないからと、次々に居城の八代城へ呼び寄せては手討ちに。その数は36人にも及んだそう。その数を平安時代の和歌の名人になぞらえて「歌仙兼定」と名付けたらしいですね。

新選組副長「土方歳三」が愛した名刀【和泉守兼定】

兼定の一派「第11代会津業蔵兼定」が鍛えた業物ですね。この二尺八寸の和泉守兼定は時の会津藩主松平容保から下賜されたものであり、この太刀を佩いて京都市中や戊辰戦争、函館まで戦ったわけです。

池田屋事件の直後に、新選組局長であった近藤勇が書いた手紙ですね。

土方氏も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差は一尺九寸五分堀川國廣

 

立花家に伝わる名刀~雷切~

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この雷切という日本刀は、実は大刀ではなく脇差(小刀)でした。無銘のため刀工の名前はわかりませんが、立花道雪といえばこの刀。と言われるほどあまりに有名ですね。

立花道雪によって【雷切】と名付けられる

元々この刀は、九州筑前の武将である立花道雪が所有しており、「千鳥」と呼ばれていました。道雪が若い頃、木陰の下で休んでいたところ、急に空がかき曇り夕立が降ってきました。するといきなり雷が落ち、すかさず道雪は千鳥を手に雷をズバッと切ったのです。

今でいうと刀に雷が落ちた。ということなのでしょうが、当時の勇ましい武将のこと。その逸話は後日譚として伝わり「道雪殿は勇ましくも雷を切ったのだ」と称賛されることになったのでしょう。道雪自身は半身不随になりますが、これ以来、千鳥は雷切と名を変え、立花家に伝わることとなったのです。

右ハ道雪様御指也、雷切ト申ス訳ハ、鑑連公、未ダ豊後国大野郡藤北之御館ニ被成候節、炎天之頃、大木ノ下ニ御涼所、御シツライ、此所ニ或時被遊御昼寝候節、其処ニ突然落雷有之候、御枕元ニ御立被置候処ノ千鳥ト云フ御太刀ヲ被遊御抜合雷ヲ御切被成早速御立退被成候

出典 立花家御腰物台帳「御腰物由来覚」より

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