日本刀にまつわる逸話いろいろ【あんな刀やこんな刀も?】
立花家に受け継がれていく【雷切】
この刀は、道雪の養子である宗茂にも受け継がれました。この立花宗茂、関ヶ原合戦で敗れて浪人するものの後年見事に大名として復活した傑物としても知られていますね。以後、柳川藩立花家に代々伝わっていくのです。
一時、紆余曲折あって家臣が所有した時期もありましたが、江戸中期に再び藩主へ献上。延宝年間(17世紀後期)において、この刀の価値は千貫文という折紙が付きました。現在の価格でいえば1億5000万円ほど。
雷切は現在、福岡県柳川市にある立花家史料館に所蔵されており、昭和の初め頃には刀に焼けた跡(落雷の跡?)が残っていたそうです。
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徳川に災いをなした妖刀?~村正~
村正とは、もともと伊勢国(現在の三重県あたり)で活躍していた刀工でした。日本が戦国時代に入る直前に三河国(現在の愛知県東部)へ移住し、それ以後は多くの戦国武将に愛されたことで知られていますね。しかし村正は「妖刀」であることでも有名なのです。それはなぜだったのでしょうか?
徳川家康の肉親が【村正】によって次々と殺された?
村正製造の地場が三河だったこともあり、東海地方には数多くの村正が流通していたことでしょう。徳川に災いを起こす妖刀。まずは家康の祖父であった清康が犠牲になります。合戦の最中に、父を清康によって殺されたと勘違いした家臣が清康を殺害。この時の刀が村正でした。これ以降、お家は急激に衰退していきました。
ついで家康の父であった広忠。岡崎城内で乱心した近臣によって殺されてしまいます。この時の刀も村正。さらに家康の嫡男だった信康が敵に内通したという疑いを掛けられ、自害する際の介錯に使われたのも、またまた村正。あまりの災いに家康は「差物(大小の刀)のうち、村正を使っている者があれば、直ちに捨てよ」と命じたとのこと。
実は家康も持っていた【村正】
「徳川に災いをなす妖刀」として忌避されていた村正。しかし家康はそれほど嫌ってはいなかったという説もあります。現に徳川美術館には家康所用だったものが展示されてますし、刀工としての村正も江戸時代末期まで連綿と続いていたのですから。ただそういった逸話を面白おかしく脚色した後世の人々が「妖刀伝説」を作り上げたのでしょうね。
しかし現実に徳川と敵対した真田信繁(幸村)や由比正雪たちも所有してましたし、幕末維新の頃に討幕を目指した志士たちがこぞって村正を求めたという話や、戊辰戦争での新政府軍の総司令官だった有栖川宮熾仁親王も自ら佩用していたといいますから、そういった意味では「徳川に災いをなす妖刀」となるのかも知れませんね。
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日本で最も高名で最も出回った日本刀~正宗~
正宗といえば、日本で知らぬ者がいないほど高名な日本刀なのですが、その出回った数も限りがないと言われています。もちろん偽物も含めての話なのですが、とにかく銘(作者の名前や年号)を切らないことでも有名で、国宝に指定されている刀であってもほとんどが無銘なのですね。創始者の岡崎正宗は、弟子を多く取る人でも有名だったようで、日本全国にその技法は伝わり鎌倉時代から江戸時代に至るまで作り続けられてきました。
戦国武将や徳川将軍を渡り歩いた伝家の宝刀【本庄正宗】
元々は上杉家の武将であった本庄繁長が、合戦の際に襲ってきた敵将から分捕ったものだと言われていますね。その後、繁長は京都での普請(土木工事)に赴きますが経費がかさんで困難な状況に。そこで豊臣秀吉の甥であった秀次に金子を用立ててもらった代わりに譲り渡しました。さらにその後、秀吉にも献上されることになります。
そして秀吉の死後、朝鮮出兵での活躍を賞された島津義弘へ下賜されることに。しかし、本庄正宗の流転はここで終わりません。関ヶ原合戦後に今度は徳川家康へ献上されたのです。家康の死後、紀州徳川家へと形見分けされますが、4代将軍家綱の時に再び将軍家へ献上されることになったのでした。
以後、本庄正宗は将軍の代替わりのたびに伝えていくよう定められ、15代将軍慶喜の孫の代まで続いていったのでした。これが「伝家の宝刀」と呼ばれる所以なのですね。しかし、日本が太平洋戦争で敗戦した後、実はGHQ(連合国最高司令部)によって持ち出され、その行方は現在もわからないそうです。もしかしたら、アメリカの地をいまだに流転しているのかも知れませんね。
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