日本の歴史

日本刀にまつわる逸話いろいろ【あんな刀やこんな刀も?】

家康の次男と三成との友情の証【石田正宗】

豊臣秀吉の死後、朝鮮出兵から命からがら戻ってきた武断派の武将たちは、秀吉の秘書的立場でもあった石田三成に恨みを抱いて彼を襲撃しようとしました。そこで三成は徳川家康の屋敷に逃げ込み助けを求めたのです。ここで騒ぎを起こさせたくなかった家康は、彼を匿い、居城の佐和山城へ送り届けようとしたのでした。

家康の次男である結城秀康が警護の任にあたったのですが、実は彼は秀吉の養子だった人物です。三成とも近しい間柄であったのかも知れません。佐和山までの道中、秀康の若武者ぶりに大いに感じ入り意気投合し、警護してくれた謝意を表すために石田正宗を秀康に贈ったのでした。その一年後、関ヶ原合戦では敵味方に分かれますが、秀康は生涯その刀を愛用していたらしいですね。

池田の殿様が絶対手放したくなかった名刀~大包平~

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元々は備前(現在の岡山県東部)包平(かねひら)という刀工があり、助平、高平と共に「備前の三平」として有名な存在でした。その中でも大包平は「包平の中でも最高の包平」という意味で【大】が付けられているとのこと。池田氏中興の祖といわれる輝政の代から所有し、輝政曰く「一国にも替え難い」とも称賛された名刀だったのですね。現在でも「日本刀の中では西の横綱」と言われるほど価値が高い日本刀ということになります。

まさに門外不出の名刀【大包平】

池田家が、いかにこの名刀【大包平】を大事にしてきたか?その逸話には事欠きません。戦前のお話ですが、当時の岡山県知事が刀剣研究家を伴って池田家に大包平を拝見しに行ったところ、刀剣研究家には手に取ってじっくり見させるのに、知事にはいっこうに手渡してくれない。理由を聞くと、「刀剣研究家は玄人。知事さん、あなたは素人だからダメ」と言われてしまったそうです。

また、国宝に指定されるため、いったん文部省へ運ばねばならない時に、池田家は案の定拒否。理由は「門外不出」だから。そこで池田家と親しい旧熊本藩の細川の殿様に相談したところ、細川の殿様にはあっさりと引き渡してくれたそうです。その際に細川の殿様はこう言ったそうですよ。

「門外不出ということなら、じゃあ門から出さなければいい。塀越しに受け取るからそれでいいね?」

GHQからの命令も断固拒否

終戦後、GHQからは刀剣提出令が出されました。先ほど紹介した本庄正宗が奪われたのも、この時のこと。当然のように池田家にも刀剣を差し出すように命令が来ますが、家宝を奪われるのは先祖に申し訳ない。困った池田家は当時の米軍憲兵司令官に相談しました。そうしたところ、「憲兵司令部から兵隊を出すので刀剣をすべて上野博物館へ避難させるように。」と指示が。結局はGHQに引き渡すことなしに大包平を無事守ることができたのでした。

その際に池田家は、こうもお願いしたそうですね。「池田家のものだけじゃなく、もう少し先に行けば広島の浅野家のものが。それからまだもう少し先に行けば熊本の細川家のものがあるから、それも全部運んでください。」そうして多くの国宝級の日本刀が救われたそうです。

日本刀とは日本人の心そのもの

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平安時代の終わりから現代まで、様々な形で日本人と関わってきた日本刀。今は博物館などでしか拝見することはできませんが、これまで多くの人々が歴史を紡いできたように、日本刀もまた様々な人たちの間を渡り歩いてきたことが歴史そのものであり、日本人の心の拠りどころなのかも知れませんね。

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明石則実