中国の歴史

中国清王朝の衰退を決定付けた「アロー戦争」とは?わかりやすく解説

19世紀後半に中国の清王朝が国として衰退の時期に入ったことやそのきっかけになったアヘン戦争などはよく知られています。しかし、その10年が経った頃に起こったアロー戦争についてはあまり知られていません。実際にはこのアヘン戦争とともにアロー戦争が清王朝を崩壊に向かわせた戦争だったといえるのです。イギリスとフランスが清王朝の弱体化を見てその隙に乗じようとしたのが、アロー戦争でした。このアロー戦争について詳しく解説します。

アヘン戦争のあとに起こったアロー戦争とは

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アヘン戦争後の南京条約から14年経過した1856年に。イギリスとフランスは中国の清国に対して戦争をしかけ、勝利しました。この戦争をアロー戦争といいます。この戦争は、アヘン戦争に敗れてもアジアの第一の大国としてのプライドを捨てない清王朝に対するイギリス、フランスの不満が爆発した戦争といえました。詳しく見てみましょう。

アヘン戦争で弱体化を露見させた清王朝への意識の変化

1839年から始まったアヘン戦争でイギリスに敗れた中国の清王朝は、それでもヨーロッパ列強国に対して内心はともかく、表面的には強気の態度を変えようとしません。しかし、国内ではアヘン戦争に敗れた清王朝に対して、もともとの漢民族(中国人)である人々がそれまでの従属姿勢から目覚めて、王朝に対する意識が変わりつつありました。

すなわち、清王朝は漢民族の王朝であった明王朝を倒した中国東北部にいた女真族の王朝だったからです。そのため、各地で反乱が起こるようになり、その代表的なものが洪秀全が起こした太平天国の乱でした。この太平天国の乱は、キリスト教の信仰を絆に洪秀全をキリストが復活した天主として崇める組織太平天国が起こした反乱であり、清王朝には彼らを鎮圧する力がなくなっていたのです。もともと、清王朝ではキリスト教は禁じられていました。

清王朝の弱体化を見抜いたイギリスとフランス

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その清王朝の弱体ぶりを見て、戦争をしかけたのがイギリスとフランスだったのです。イギリスはアヘン戦争に負けたにも関わらず、賠償金の支払いを渋り、通商条約に応じず貿易にも消極的な清王朝に対して腹を立てていました。

また、フランスはイギリスに敗れてインドから追い出され、インドシナ半島の植民地化に力を入れています。しかし、清王朝にとってはベトナムやラオスなどはもともと中国王朝が宗主国でした。したがって、フランスの進出はこれに横やりを入れるものであり、対立していたのです。そのため、フランスと清王朝はことあるごとに小競り合いを繰り返していました。フランスはそのような状況のなかで、清王朝がアヘン戦争でイギリスに敗れたことから、弱体化を見抜き、清王朝に植民地化を認めるように交渉をしていました。フランスは、交渉がうまくいかないため、本格的に戦争をしかけて、インドシナ半島でのフランスの植民地化を認めさせたいと考えていたのです。

太平天国の乱によって清王朝は追い詰められる

そのような状況のなかで、太平天国の乱が起こり、清王朝はそれを鎮圧する力がないことがわかったのです。当然、英仏ともにこれをチャンスと捉えて、清王朝に対して開港さまざまな要求や無理難題をふっかけ、聞かなければ戦争をチラ付かせました。しかし、アジアの大国としてのプライドを持つ中国の清王朝としては簡単にそれを受け入れるわけがなく、太平天国の乱のさなか。ついに清国軍が砲撃をおこない、戦争に突入したのです。

しかし、すでに科挙によって選抜された清王朝の官僚組織の政府にはすでに軍隊の統率力はなく,アロー戦争はイギリス、フランスの圧勝に終わります。この戦争の事後処理としておこなわれた清国の首都北京での講和会議がおこなわれ、清王朝にとっては屈辱的な北京条約が結ばれました。そして、この北京条約の結果、イギリス、フランスは中国国内の太平天国の乱に介入し、圧倒的な火力兵器で太平天国を鎮圧したのです。

アロー戦争で清王朝は変わったか?

このできごとによって、清王朝内にもようやくこのままの体制ではだめだと気付いて、皇帝を中心として洋務運動がおこなわれるようになりますが、科挙の試験を合格した官僚たちの抵抗は強く、保守派の西太后の反対もあり、清王朝の近代化は進みませんでした。洋務運動そのものが官僚体制や組織をそのままにして、機械、兵器などの西洋文化だけを輸入で取り入れるだけの政策であったため、清王朝内の近代化にはつながらなかったのです。

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