三国時代・三国志中国の歴史

始皇帝から厚く信任された丞相「李斯」の生涯を元予備校講師が分かりやすく解説

紀元前100年頃、前漢の武帝の時代に生きた歴史家の司馬遷は、自分の生涯をかけて歴史書『史記』を完成させました。『史記』には個性的な人物が多数記録されています。今日紹介する李斯もその一人です。李斯は一平民から始皇帝をさせる宰相にまでのし上がりました。しかし、始皇帝の死後、李斯は失脚し処刑されてしまいます。秦帝国の功労者がなぜ、処刑されるという末路をたどったのでしょうか。今回は、李斯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

始皇帝に仕官する前の李斯

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李斯はもともと秦の人ではなく、楚の北部の上蔡の人でした。若いうちは小役人をつとめていましたが、トイレのネズミを見て、「もっと、出世できる国に行くべきだと」と考え、荀子の下で学び、最強国の秦に仕官します。荀子の下で学んだ同門の学生に韓非子がいました。李斯や韓非子は法家の思想家として現在も名を残しています。

トイレのネズミと兵糧庫のネズミ

李斯が若いころ、中国大陸では燕・斉・楚・韓・魏・趙・秦の七国(戦国に七雄)が覇権を競い合っていました。この時代のことを戦国時代といいます。李斯はその一国である楚に生まれました。

若いころ、李斯は今でいう地方公務員の末端に連なる小役人に過ぎませんでした。あるとき、李斯はトイレでネズミを見かけます。現代と異なり、古代においてはトイレにいるネズミなど珍しいものではありません。李斯の姿を見つけたネズミは慌てて逃げ去りました。

また、あるとき、李斯は兵糧庫の食料の確認に向かいました。そこにも、ネズミが入り込んでいました。兵糧庫のネズミは李斯の姿を見ても一向に恐れおののかず、悠然としています。

トイレのネズミと兵糧庫のネズミ。二匹のネズミの姿を比べた李斯は「人間の賢と愚も、つまりはネズミのごときもの。そのいる場によって決定されるのだ」と悟りました。

李斯の師で、性悪説を唱えた荀子

李斯は、トイレのネズミではなく兵糧庫のネズミになるべく、役人を止めました。李斯は高名な学者である荀子のもとで勉学に励みました。

荀子は、趙の国に生まれた儒学者です。孔子や孟子の説を発展させ、学問を発展させた人物でした。荀子の思想としてよく知られるのが「性悪説」。人間の本質は悪なので、礼というルールをみにつけた聖人が国を統治するべきだと主張しました。

荀子の性悪説は、孟子の「性善説」と対比されます。孟子は、人の本質は善であるとする「性善説」を説きました。

荀子は、孟子のいうところの「生まれながらの善」を否定。人は、礼によって導かれなければならないと説いたのですね。荀子の「礼による導き」を発展させたのが李斯の同門である韓非でした。

李斯と共に学んだ韓非

李斯と共に荀子の門下で学んだのが韓非でした。韓非は韓の公子の家に生まれたとされます。韓非の詳しい生涯は不明な部分が多いですね。その韓非、若いころから吃音に悩まされていたようです。

幼いころから吃音で周囲の人々から見下されていた韓非ですが、たぐいまれな文才を持っていました。彼は、自分の考えを文章にまとめます。韓非は、自分の祖国である韓が事実上、秦の属国のようになっている有様を見て、何とかしようと韓王に意見書を出しますが用いられません。

韓非は、自分の意見が用いられないことへのやるせなさや、自らの思想を後世に残したいという気持ちなどから『韓非子』を著したといわれます。

やがて、『韓非子』が秦の始皇帝の目に留まりました。始皇帝は韓非を登用しようとしましたが、自分の地位が脅かされるのを恐れた李斯によって冤罪の濡れ衣をかぶせられ自害に追い込まれます。

李斯が奉じた法家思想とは

韓非は性悪説を発展させ、国家を統治するためには礼よりもさらに強力な「」が必要だと考えます。韓非は、過去の政治家、特に秦の商鞅などの政治を参考にし、国家統治の基本は法によるべきだとする「法家」の思想を大成させました。

韓非が大成させ、李斯が奉じた「法家」とはいったいどのような思想なのでしょうか。春秋時代、魯の思想家である孔子は、人間愛である「仁」や社会秩序を意味する「礼」を重視。孔子の考えを発展させた孟子は、君主の徳によって国を治める徳治主義を主張しました。

しかし、韓非や李斯は公正で厳正な法の執行が行われてこそ、国は統治できる(法治)と考えます。法家思想とは、徳治主義は「甘い」と考え、法の支配と法に違反するものを厳罰にする思想だといってよいでしょう。

始皇帝に仕え、優秀な官僚となった李斯

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荀子の下で学んだ李斯は、秦の宰相だった呂不韋に登用され、秦王政、のちの始皇帝に仕えます。李斯は優秀な官僚として始皇帝に高く評価され、始皇帝の天下統一やその後の中国統治などで才能を発揮しました。しかし、始皇帝の死後、李斯は自らの保身のために宦官(かんがん)趙高と結託。やがて、長江との権力闘争に敗れ処刑されてしまいました。

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