逐客令に対する反対
李斯は秦王政の下に赴き、秦の役人として登用されました。戦国時代、人材は非常に流動的で、他国の人でも登用されます。特に、秦は外国からの人材登用に寛容な国でした。
紀元前237年、すぐれた土木・治水の専門家である鄭国が、韓から送り込まれたスパイであることが発覚しました。韓の目的は、秦の力を土木工事に使わせることで、自分の国が責められないようにすることでした。
鄭国がスパイであることを知った秦の王族らは秦王政に外国人追放令である「逐客令」を出すよう迫ります。外国人である李斯も追放対象となりました。これを聞いた李斯は秦王政に対し、逐客令の撤回を求める意見書を提出します。
李斯は意見書の中で、秦が強大になったのは外国人の力を積極的に取り入れたからであると主張。実際、秦の歴代の国王は他国出身者でも有能な人物を登用することで国を豊かにし、王族の専横を阻止してきました。李斯の意見書を読んだ秦王政は、逐客令の発布を取りやめます。
秦による中国統一と郡県制の実施
秦王政は、秦を強化するための政策を積極的に実施します。鄭国の灌漑事業も、秦の国力増加に寄与すると判断し、続行させました。鄭国の灌漑事業は成功し、秦の食料生産能力が大幅にアップします。
国力を強めた秦は、東方の六カ国を次々と征服しました。征服戦争は紀元前230年ころか本格化し、紀元前221年の斉の征服で完了します。李斯は征服戦争の下準備として六国の内部かく乱を担当。有能な敵の買収や殺害などの謀略を成功させます。中国全土を統一した秦王政は始皇帝を名乗りました。
始皇帝は六国征服に功があった李斯を臣下の最高位である丞相に任じます。トイレのネズミだった李斯は兵糧庫どころか、位人臣を究めました。
また、始皇帝は、秦で採用されていた国家が人民を直接統治する郡県制を中国全土で実施します。李斯は郡県制実施のために必要な文書を管理するため、全国統一の文字である小篆に字体を統一させました。
焚書・坑儒の実施
紀元前213年、始皇帝は都の咸陽で宴を催しました。この時、臣下の一人が「殷や周の時代のように、王族に全国各地の土地を与える封建制度を行うべきだ」と始皇帝に進言しました。
始皇帝は李斯に検討を命じます。李斯は、進言を却下したうえで、「昔のことを盾に取って、今の制度に文句を言わせてはならない。文句のもととなる、昔の書物は、焼き払ったほうが良い」と考え、始皇帝に進言しました。
始皇帝は李斯の進言を採用。全国各地から秦の統治に批判的な儒家などの書物を没収し、焼き払わせました(焚書)。
紀元前212年、始皇帝を誹謗したとの罪で咸陽にいた学者460名が捕らえられ生きたまま埋められました。儒学者が弾圧の対象となったことから坑儒といいます。
始皇帝や李斯にとって、過去の政治を根拠に現在の政治を批判する儒家は、政治の妨げ以外の何物でもなかったのでしょう。
主君である始皇帝の死
六国を滅ぼし、中国全土を支配した始皇帝は、征服した各地を旅する地方巡行を盛んに行いました。特に有名なのが、泰山で封禅の儀式を行ったこと。ほかにも、各地の霊山・霊場などをまわっています。巡行中、始皇帝は刺客に狙われますが無事でした。
紀元前210年、始皇帝は丞相の李斯や末子の胡亥をともなって第五回の巡行に出ます。巡行の途中、始皇帝は体調を崩しました。晩年の始皇帝は、自分の統治を永遠のものとするため、不老不死を夢見ます。結局、不老不死の薬は発見されませんでした。
自分の死期が近いことを悟った始皇帝は、宦官の趙高に命令書を手渡します。命令書には、長男の扶蘇を咸陽に呼び戻し、自分の葬儀を主宰させるとありました。
始皇帝死後の陰謀
始皇帝は遺言を書かせて間もなく亡くなりました。始皇帝の遺言はまだ発送されず、趙高 の手元にあります。趙高は胡亥とともに、遺言書を握りつぶそうと画策しました。そのためには、丞相の李斯を味方につける必要があります。
趙高は李斯に、遺言を握りつぶして胡亥を即位させようと持ち掛けました。扶蘇は、始皇帝の不興を買ったとはいえ英名で知られています。扶蘇が即位すれば、李斯は失脚させられるかもしれないと趙高は説いたのかもしれません。
実際、皇帝が変わると、前の皇帝の重臣が更迭されたり、場合によっては処刑されることも珍しくありませんでした。結局、李斯は趙高の誘いに乗り、遺言を握りつぶしました。そして、扶蘇を自殺に追い込んで後顧の憂いを断ちます。
李斯の失脚と処刑
都に戻った胡亥は二世皇帝として即位します。胡亥は、始皇帝に仕えた女官たちや、始皇帝の墓である驪山陵を作った職人たちをすべて殺して、始皇帝とともに埋葬しました。二世皇帝となった胡亥は、宦官の趙高を深く信任します。
二世皇帝は、豪華な宮殿である阿房宮の建造にとりかかりました。豪華な宮殿をつくりため、全国各地から人夫が動員されます。万里の長城や驪山陵につぐ大規模工事で、動員された人民の怒りは頂点の達しました。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が勃発。秦の支配が大きく揺らぎます。李斯は二世皇帝に阿房宮の建設中止を進言しますが、聞き入れられませんでした。
紀元前208年、李斯は二世皇帝の不興を買い、息子が敵に内通したとの罪をでっちあげられ、処刑されてしまいます。李斯の一族は皆殺しにされてしまいました。