中国の歴史

部下たちに推戴され北宋を建国した「趙匡胤」を元予備校講師がわかりやすく解説

今からおよそ1000年前、経済的に大いに繁栄した国が中国にありました。その国の名は「宋(宋朝)」。のちに登場する「南宋」と区別するため、「北宋」とよばれる国を建国したのが節度使の趙匡胤でした。趙匡胤は武人でありながら、節度使の権限を弱め、科挙で採用した役人中心の文治政治を行いました。今回は、北宋の太祖趙匡胤と彼が建国した北宋について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

北宋建国の背景

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北宋が建国される50年以上前、世界的にも名の知られた大帝国の唐が滅亡しました。その理由は、国内政治の混乱と、地方を支配する武人である節度使の力が強くなりすぎたためでした。唐の滅亡後、華北には五代とよばれる王朝が興亡を繰り返し、華北以外には十国が建国される五代十国時代となります。

節度使や藩鎮の成長

北宋の建国からさかのぼることおよそ350年。聖徳太子が使いを送った隋にかわって、が中国を統一しました。唐が建国されてから100年後、農民を徴兵する府兵制が限界に達し、給料を払って兵士を集める募兵制が行われます。

募兵制で集めた兵の司令官が節度使でした。唐が最も華やかだった玄宗皇帝の時代、国境沿いに十の節度使が設置されます。

755年、節度使の一人である安禄山安史の乱を起こしました。玄宗は都の長安から地方に脱出して、なんとか難を逃れます。安史の乱以後、節度使は国境だけではなく唐の全土に置かれ、軍事だけではなく政治も行うようになりました。

唐の中央政府が弱くなると、各地の節度使は勝手に政治を行うようになります。節度使による半独立の地方政権のことを藩鎮と呼ぶようになりました。

唐の滅亡

875年、黄河の下流域で大規模な農民反乱が起きました。混乱のさなか、蝗(いなご)が大量発生し、農作物を徹底的に食べつくします。生活の糧を失った人々は各地で反乱軍を組織しました。中でも強力だったのが塩の密売商人だった王仙芝黄巣が率いる反乱軍でした。

唐に寝返ろうとした王仙芝にかわって、反乱軍のリーダーとなった黄巣は唐の都である長安を陥落させます。その後、黄巣の反乱は鎮圧されますが、唐王朝は壊滅状態となりました。

混乱の中、唐の朝廷で主導権を握ったのが節度使の朱全忠でした。朱全忠は皇帝の昭宗を殺害。その子を形だけ皇帝にします(哀帝)。907年、朱全忠は哀帝から位を譲られ、後梁を建国。これにより、300年以上続いた唐は滅亡しました。

五代十国時代

唐が滅亡すると、華北には朱全忠が建国した後梁が成立しました。後梁にはじまる5つの王朝をまとめて五代といいます。いずれも、節度使が建てた王朝でした。戦乱の時代である五代は、武人の力が強かったことが分かりますね。武人が武力を背景に行う政治を武断政治といいます。

華北にできた五代の王朝は、後梁・後唐・後晋・後漢・後周。ほぼ、10数年ごとに王朝が後退します。五代の多くの王朝が都をおいた汴州は、大陸の南北をつなぐ交通の要衝で、のちに趙匡胤が建国する北宋も都をおきました。

華北以外の地域には十国とよばれる国々ができます。五代十国時代は907年の唐の滅亡から、北宋による中国統一が果たされる979年まで続きました。

趙匡胤による北宋の建国

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後周の節度使となった趙匡胤は優秀な武人でした。後周の皇帝が亡くなり、幼い皇帝が即位すると、力があるものが皇帝になるべきだと考えた人々が趙匡胤を皇帝として推戴。趙匡胤は皇帝に即位し、北宋を建国しました。趙匡胤は優秀な官僚を自分で面接して登用。節度使たちの武力を弱め、安定した王朝を作りました。しかし、中国統一目前のところで死去します。

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