部下たちに推戴され北宋を建国した「趙匡胤」を元予備校講師がわかりやすく解説
後周の将軍として武勲をたてる趙匡胤
趙匡胤は五代の二つ目の王朝である後唐の時代に生まれました。若いころは、なかなか出世できず、生活に苦労したようです。趙匡胤の運が開けたのは、後漢の将軍郭威に仕えてから。郭威が後漢を倒し、後周を建国すると、趙匡胤も後周に仕えます。
郭威の死後、後周の皇帝になったのは妻の甥である柴栄(世宗)が後周の皇帝となりました。柴栄は国内制度を整備し、弱体化していた軍を再建。各地を支配していた節度使から精鋭を都に送らせることで、節度使を弱め、中央軍を強くしました。
国内体制を整えた柴栄は、中国統一を目指し、周辺諸国と戦いを繰り返しました。中でも、北方の騎馬民族である遼や、遼の衛星国である北漢との戦いは激しいものとなります。趙匡胤は柴栄の厚い信任を得て、皇帝直属軍の司令官(殿前都指揮使)となりました。
陳橋の変で皇帝に即位
959年、柴栄は遼との戦いの最中に亡くなりました。柴栄の後を継いだのは7歳の柴宗訓です。戦乱の時代に幼い君主を立てて戦うことに不安を覚えた軍人たちは、柴栄の信任が厚かった趙匡胤を皇帝にしようと考えます。
960年、遼の軍が攻め込んできたとの知らせを受け、後周の朝廷は趙匡胤に迎撃を命じました。趙匡胤は陳橋という場所に到着し、いつものように深酒をして寝入ってしまいまいます。趙匡胤の部下たちはこの機会を待っていました。
部下たちは、趙匡胤の弟である趙匡義を仲間に引き入れ、趙匡胤に皇帝に即位してもらうよう皆で頼み込みます。初めは断っていた趙匡胤も、ついには皆の願いを聞き入れて皇帝即位を承認しました。部下たちは趙匡胤に皇帝の衣装である黄袍を着せ「皇帝万歳」を叫びます(陳橋の変)。
都に戻った趙匡胤は、幼い皇帝から位を譲られる禅譲という形式を経て、皇帝に即位。新たに「宋」を建国しました。歴史上、趙匡胤が建国した宋を北宋といいます。
殿試の実施と文治主義
皇帝に即位した趙匡胤は、役人を登用する国家公務員試験の「科挙」改革に乗り出しました。趙匡胤は、従来の科挙に加え、最後に皇帝自らが面接を行う「殿試」をおこないました。殿試が追加されたきっかけは、不正が発覚したこと。
975年に趙匡胤自らが受験生に質問したことが、殿試のはじまりでした。殿試の第一位を状元といいます。状元は受験生にとって最高の名誉でした。皇帝自らの試験で合格した高級官僚は、皇帝や宋の朝廷に忠誠をつくします。
また、趙匡胤は五代十国で行われていた武断政治はデメリットが大きいと考え、文官である科挙官僚に政治を実行させる文治主義を徹底させました。北宋では、官僚に支えられた皇帝による独裁政治が行われたと考えてよいでしょう。
こちらの記事もおすすめ
中国の官吏登用試験「科挙」とは?歴史とその功罪をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
将軍たちから巧みに兵権を取り上げた趙匡胤
趙匡胤は節度使として活躍し、皇帝に上り詰めた人物です。それだけに、武力を持つ節度使や将軍の存在が王朝を脅かすことをよく知っていました。とはいえ、いきなり将軍たちから兵権を取り上げようとすると、反乱を起こしかねません。
あるとき、趙匡胤は苦楽を共にしてきた将軍たちと酒を酌み交わしていました。酒を飲みつつ趙匡胤が「オレが天下を取ったのはお前たちのおかげだ。だが、そのせいで、近頃安眠できなくなった」と語りました。
将軍たちがその理由を尋ねると「お前たちのだれかが、皇帝にとってかわろうとするからだ」と答えます。将軍たちは、そんなことは絶対にないと忠誠を誓いますが、趙匡胤が「お前たちにその気はなくても、お前たちの部下に担がれ、黄袍を着せられ皇帝万歳を叫ばれたら断れないんじゃないか?」といいました。
将軍たちは、陳橋の変を思い出し、自主的に兵権を返上。余生を楽しむことを選びます。趙匡胤は粛清などの強硬手段に頼ることなく、将軍たちから兵権を取り上げました。
後の皇帝たちに守らせた石刻遺訓
趙匡胤が後世に残したものの一つに、石(または鉄)に刻ませた遺訓があります。その遺訓に何が書かれているかは、皇帝しか読むことができませんでした。新皇帝は、即位の時に石刻遺訓を拝み見て、それを守ります。
石刻遺訓の存在は、宮中でもごく一部の者たちだけしか知りません。歴代の宰相たちも知らなかったとされます。金軍が宋の都である開封を攻め落とした時、はじめて、石刻遺訓の存在と内容が明らかになりました。
遺訓に書かれていたことは2つ。一つは、趙匡胤に皇位を譲った後周皇族の柴一族を粗略に扱わず、子々孫々まで面倒を見ること。もう一つは、言論を理由に士大夫を殺さないことでした。
宮廷につかえる官僚が、皇帝の怒りによって処刑されることは、歴代王朝でよく見られたことです。趙匡胤は官僚を委縮させないためにも、言論の自由を保障したのかもしれませんね。
千載不決の議
960年に宋の皇帝として即位した趙匡胤は、華中や華南に割拠する十国を併合し、中国統一を回復させようとしました。963年、趙匡胤は長江中流域にあった荊南を併合します。965年、四川にあった後蜀を平定しました。975年、十国中最大勢力の南唐を滅ぼし、残るは、南の呉越と北の北漢だけとなります。
まもなく中国統一というところで、一つの事件がおきました。皇帝である趙匡胤が急死したのです。当時、趙匡胤は50歳。まだ、働き盛りといってもよい年代での急死は、古来、さまざまな憶測の源となりました。
趙匡胤が弟である趙光義(趙匡義)によって暗殺されたのではないか、と疑われますが、結局、証拠はありません。976年、趙光義は宋の二代皇帝となります。趙匡胤の死の真相は「千載不決の議」(千年たっても結論が出ない議論)とされ、歴史の闇に葬られました。