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吉田松陰から尊王攘夷を引き継いだ男「久坂玄瑞」生涯をわかりやすく解説

「久坂玄瑞(くさかげんずい)」は、松下村塾で吉田松陰(よしだしょういん)を師と仰ぎ、高杉晋作(たかすぎしんさく)と互いに争いながら成長しました。その松陰の尊王攘夷を継承し長州藩をひとつに纏めた人物です。2015年放映の大河ドラマ「花燃ゆ」で主人公文の一番目の夫として登場していたのは記憶に新しいでしょう。今回は、長州藩激動の時代を支えた志士、「久坂玄瑞」をご紹介したいと思います。

1.久坂玄瑞の生い立ち

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久坂玄瑞は、尊王攘夷を唱えた恩師吉田松陰の思いを受け継ぎ、目まぐるしく移り変わる激動の幕末に24歳の命を散らせました。久坂玄瑞こそが、幕末の「有志」、「志士」の典型で“この時代の申し子”といえるのではないでしょうか。

1-1玄瑞は医者の子だった

久坂玄瑞は、天保11(1840)年5月に、家格は寺社組で藩医の久坂良迪(りょうてき)と富子の3男として生まれました。幼名は秀三郎です。(玄瑞が生まれた1840年の海外は、日本にも大きく影響したアヘン戦争が勃発した頃。)萩城下平安古八軒屋に住んでおり、家禄は25万石です。国はもちろん藩の政治を動かす家柄ではありません。天下泰平の世に誕生していれば、間違いなく藩主やその家族の脈を診る医者で終わっていたでしょう。

次男は夭逝しており、20歳年上の長男玄機(げんき)の強い影響を受けて育っています。玄機は、京坂方面へ遊学して蘭学に傾倒し名を馳せ、適塾(てきじゅく)で、緒方洪庵(おがたこうあん)の客分になったほど優秀な人物です。藩から帰京を命じられ、好生館(医学館)で都講役を勤めます。長崎でモーニッキが種痘に成功し、長州でも行うことになりその一員にも選ばれ多くの命を救いました。

ちょっと雑学

兄の玄機は相当優秀で、オランダ語の翻訳もこなしたようです。医学以外にも海軍や砲術などの翻訳にも携わったためか、実は熱烈な攘夷論者でした。西洋列強の脅威を日本で最初に目にしており、海防の必要性もしきりに上申したようです。尊王攘夷派の僧侶、妙円寺住職・月性との交流があり、酒を酌み交わし激論を戦わせていたとか。

1-2天涯孤独の身となる玄瑞

玄瑞は優秀な兄玄機のことを尊敬しており、強い影響を受けたことは間違いないでしょう。近くの吉松淳蔵の寺子屋などに通っており、玄瑞自身も幼い頃から優秀だったようです。

長州医学所の「好生館」に入学した後、嘉永6(1853)年8月4日の14歳の時に母が病死。その後アメリカやロシアの使節が来航し玄機がその上書を書いている最中に、病に侵され安政元(1854)年2月27日に35歳で亡くなったのです。期待をしていた玄機にまで先立たれたショックからか、父も体調を崩し同年3月4日に63歳で他界しました。14~15歳の7ヶ月間に、家族を全て失います。玄瑞の両親は萩出身でないため、親戚もおらず天涯孤独になったのです。

玄機は未婚で子供もいなかったため、6月9日に藩から玄瑞が久坂家の家督継ぐ許しを受けます。6月25日に寺社奉行へ「法体」となることを願い出て、6月末に許可されました。この時に「玄瑞」へと改名し剃髪します。

2.松陰との出会いと松下村塾へ入塾

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責任感の強い玄瑞は、“久坂家を絶やすわけにはいかん”と、逆境にもめげません。将来兄となる吉田松陰と出会った玄瑞は、「尊敬はしているが、なるべく関わりたくない。苦手なタイプ。」と思っていたようです。天涯孤独となりどん底に叩き落された玄瑞は、どうやって生きていくのでしょう。

2-1兄の友人に救われ遊学へ

玄瑞はまだ医者とは認められず、母の実家で庄屋の大谷家に身を寄せたり、寺に下宿したり、17歳の時には成績優秀者と認められ藩費で「好生館」の居寮生となりました。兄の友人、中村道太郎や口羽徳祐、僧月性らも世話を焼いてくれたようです。この頃の彼は身長が6尺(約180cm)もあり、片目がスガメだったようですが、格好がよく声は美声で大きかったといわれています。

兄と父の3回忌を済ませた時、中村道太郎の勧めで目の治療も兼ねて九州に遊学しました。この旅では、名勝地への観光と詩をたくさん作っており、後に『西遊稿』に纏めたようです。かつて東北に旅をした親友で、熊本にいた宮部鼎蔵(みやべていぞう)に、吉田松陰に従学することを勧められました。遊学から帰った玄瑞は、さっそく松陰へ手紙を出します。

ちょっと雑学

美声で知られる玄瑞は、詩を作り吟じるのが好きだったとか。詩を吟じながら鴨川を歩く姿は、舞妓たちを虜にするほど。彼の詩吟は、今でも「久坂流」として受け継がれています。

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