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オスマン帝国の最大領土を築いた壮麗者「スレイマン1世」の治世を元予備校講師がわかりやすく解説

13世紀末、オスマン1世が建国したオスマン帝国は小アジアからバルカン半島へと領土を拡大。ヨーロッパとアジアにまたがる空前の帝国へと成長しました。16世紀前半、オスマン帝国はスレイマン1世の時代に最盛期を迎えます。壮麗者ともいわれるスレイマン1世は陸海の戦いに勝利し、領土を拡大しました。今回は、オスマン帝国の領土拡大の過程とスレイマン1世の征服事業について、元予備校講師が分かりやすく解説します。

オスマン帝国の拡大

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スレイマンが即位する前、オスマン帝国は200年以上にわたって領土を拡大していました。小アジアに拠点を築いたオスマン帝国はムラト1世とバヤジット1世の時代に本格的にバルカン半島に進出します。メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、セリム1世がエジプトやメッカ・メディナを支配することでオスマン帝国はヨーロッパとアジアにまたがる大領土を手に入れました。

バルカン半島に橋頭堡を築いたムラト1世とバヤジット1世

14世紀後半、オスマン帝国第3代スルタンのムラト1はビザンツ帝国第二の都市であるアドリアノープルを攻略し、エディルネと改称しました。ムラト1世はエディルネを新首都として、バルカン半島の攻略を進めます。

1389年、ムラト1世はコソヴォの戦いでセルビアなどバルカン半島諸国の連合軍を撃破しました。しかし、ムラト1世は戦いの直後に急死します。かわってスルタンとなったのがバヤジット1でした。

バヤジット1世はムラト1世が作り上げたイェニチェリを率いて領土拡大を続行。1396年にニコポリスの戦いでハンガリー軍に勝利します。

ところが、1402年、東方からチンギス=ハンの再来ともいわれたティムールがオスマン帝国に来襲。バヤジット1世はアンカラでティムールを迎撃しますが敗退。捕虜となってしまいました。大打撃を受けたオスマン帝国の領土拡大は一時中断します。

コンスタンティノープルを攻め落としたメフメト2世

アンカラの戦いでダメージを負ったオスマン帝国はメフメト1世、ムラト2世の時代に国力を回復することに成功します。1453年、時のスルタンであるメフメト2は、ビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープル攻略にとりかかりました。

鉄壁の守りを誇るコンスタンティノープルを攻め落とすため、メフメト2世は艦隊を陸揚げし、街の背後にある湾から攻撃。防衛側の士気を低下させたうえで総攻撃をかけ、陥落させました。

メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改名し、オスマン帝国の新首都とします。メフメト2世は新首都にトプカプ宮殿を造営しました。

ビザンツ帝国征服後も、メフメト2世はセルビア、ボスニア、ギリシア全土、アルバニアと領土を拡大。アナトリア東部も勢力圏に組み込み、黒海周辺も支配下に収めます。そのため、メフメト2世は「征服者」とよばれました。

エジプトを征服し、メッカ・メディナの保護権を得たセリム1世

1512年、兄弟たちとの熾烈なスルタン位継承争いに勝利したセリム1がオスマン帝国第9代スルタンとして即位しました。セリム1世は東方に領土を拡大しようとします。

セリム1世の征服対象となったのはアナトリア半島東部やイランのサファヴィー朝、エジプトやシリアを支配するマムルーク朝などでした。

1514年、セリム1世はサファヴィー朝のイスマーイール1チャルディラーンで交戦。火器を有効に使いサファヴィー朝の騎兵に勝利しました。

1517年、セリム1世は軍を南方に向け、マムルーク朝の軍を撃破。首都カイロを占領しマムルーク朝を滅ぼします。マムルーク朝を滅ぼしたセリム1世はイスラム教の聖地であるメッカ・メディナの管理権を得ました。

以後、オスマン帝国はスンナ派の擁護者にして、聖地メッカ・メディナの保護者とみなされるようになります。

スレイマン1世の時代

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セリム1世の子として生まれたスレイマン1世は、歴代のスルタンによって拡大され強大化した帝国を相続します。オスマン帝国の主となったスレイマン1世はさらなる領土拡大を図り、バルカン半島や地中海で周辺国と激しい戦いを繰り広げました。その一方、国内では行政制度を整備し、スレイマン=モスクなどの壮麗な建造物を作らせ、壮麗者の名に恥じない業績を残します。

スレイマン1世の即位とバルカン半島征服

1520年、父のセリム1世が在位わずか8年で死去しました。スレイマン1は20代後半の若さで大帝国を相続します。セリム1世にはスレイマン以外に有力な皇位継承者がいなかったこともあり、スルタン位の継承はスムーズに行われたようですね。

スレイマン1世は、即位直後に起こった地方反乱を早急に鎮圧。ヨーロッパ方面への遠征を計画します。1521年、スレイマン1世はハンガリー軍と戦い、バルカン半島中部の要衝であるベオグラードを陥落させました。

1522年にロードス島を攻撃したため、バルカン半島征服は一時中断しますが、1526年のモハーチの戦いで再びハンガリー軍に勝利。ハンガリーの中央部を平定し、神聖ローマ帝国と境を接するまでになりました。

ロードス島攻略

エーゲ海の南部、小アジアに近い場所に位置するロードス島は古代ギリシア人の時代から開拓がすすめられた島で、周辺航路を制するためにはぜひとも必要な島でした。

1291年、十字軍の拠点であるパレスティナ地方のアッコンが陥落。パレスティナを追われたヨハネ騎士団がロードス島を本拠としました。以来、ロードス島は聖地巡礼のキリスト教徒を保護し、巡礼船の補給地として機能します。

ヨハネ騎士団は、海賊としてイスラム船をしばしば襲撃していました。1480年、征服王メフメト2世がロードス島を攻撃しますが、騎士団はメフメト2世の遠征軍に勝利します。スレイマン1世は曾祖父が果たせなかったロードス島攻略を目指しました。

1522年、スレイマン1世はロードス島攻略のため、20万もの兵を動員します。騎士団も必死で守りましたが、7千人の籠城兵では勝てるはずもありません。進退窮した騎士団は、ロードス島を明け渡し、マルタ島へと移ります

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