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オスマン帝国の最大領土を築いた壮麗者「スレイマン1世」の治世を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次ウィーン包囲

ロードス島を攻め落とし、モハーチの戦いでハンガリー軍に勝利したスレイマン1世は、神聖ローマ帝国皇帝(ハプスブルク家)カール5が支配するオーストリアのウィーンを次の目標と定めます。

1529年、スレイマン1世は12万の大軍を率いて北上。ウィーンを包囲しました。スレイマン1世は城壁を突破するため大砲を用いようと考えます。しかし、大砲が輸送困難で、ウィーンまで持ってくることができませんでした。そのため、歩兵や騎兵のみでウィーン包囲を実行します。

1529年9月に始まった包囲は1か月以上続きました。その間、食料などの補給が難しくなり、冬の到来も近づいてきたことから、スレイマン1世は10月14日に撤退を決断します。

第一次ウィーン包囲後もハプスブルク家とオスマン帝国の戦いが続きましたが、1547年に休戦協定を締結しました。しかし、イスラム教徒によって皇帝の都であるウィーンが包囲されたことはヨーロッパに大きな衝撃を与えます

フランスとの同盟関係

スレイマン1世はカール5世を打倒するため、異教徒であるフランスとさえ手を組みます。フランス王フランソワ1はカール5世と皇帝位や領土をめぐってしばしば戦っていました。カール5世を共通の敵とする点で、オスマン帝国とフランスの利害は一致していたのです。

スレイマン1世は同盟の恩恵としてフランスにカピチュレーションを認めました。カピチュレーションとは、スレイマン1世がフランスに認めた貿易特権のこと。フランスはオスマン帝国に協力する代わりに、帝国内諸都市で通商上の特権を得ます。

同時に、フランスは領事裁判権も認められました。これらは、フランスに強いられてオスマン帝国が認めたわけではなく、強大なスルタンがフランスに恩恵を与えるというスタンスです。

オスマン帝国が衰退すると、欧米諸国はカピチュレーションを武器にオスマン帝国内部に食い込みます。

プレヴェザの海戦

ロードス島を攻略し、小アジア周辺からキリスト教勢力を一掃したスレイマン1世は、東地中海での覇権を確立するため、大艦隊を編成します。

オスマン帝国海軍を率いたのは海賊として恐れられていた「赤ひげ」こと、バルバロス=ハイレッディン。チュニスやアルジェリアなど、北アフリカ西部(マグレブ地方)を根拠地としていました。

1533年、バルバロスは突如、イスタンブルに現れ、スレイマン1世に帰順を申し出ます。スレイマン1世はバルバロスの帰順を受け入れ、オスマン帝国海軍の総司令官としました。バルバロスに率いられたオスマン帝国海軍は急速に強大化します。

これに対し、キリスト教徒側は皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)やヴェネツィア共和国、ローマ教皇が連合艦隊を結成し、オスマン帝国海軍に対抗しました。

1538年、両軍はギリシア東岸のプレヴェザ沖で激突します。戦いはオスマン帝国軍の勝利に終わり、東地中海の制海権はオスマン帝国のものとなりました。

スレイマン1世の統治とスレイマンモスクの建設

スレイマン1世の時代、オスマン帝国は官僚制度と法制度を整備しました。行政法とイスラム法の整合性も整えられます。スレイマン1世はウラマーとよばれるイスラム法学者育成システムを定め、行政にも参画させました。

ウラマーの最高権威者はシュイヒュルイスラームとよばれ、スルタンの側近として重んじられます。法制度を整備したスレイマン1世は立法者とも呼ばれました。

1550年、スレイマン1世は著名な建築家であるミマーリ=シナンにモスクの建造を命令。ミマーリ=シナンが作り上げたモスクはスレイマン=モスクと呼ばれています。

ドームや半ドームを組み合わせこのモスクは、幾何学的な造形美は見る者を圧倒し、スレイマン1世の権威を世の中に示しました。トルコ=イスラム文化を象徴するスレイマン=モスクは1985年に世界文化遺産に登録されます。

スレイマン1世の治世末期

スレイマン1世の時代、軍事的な成功が続き、帝国の領土はヨーロッパからアジアに大きく拡大しました。スレイマン1世の治世末期、スレイマン1世の宮廷は乱れ始めます。

治世末期、スレイマン1世は後宮の女奴隷出身であるヒュッレム・スルタン(ヨーロッパではロクセラーナとよばれた)を寵愛していました。寵愛が過ぎるあまり、スレイマン1世はヒュッレム・スルタンを奴隷から解放したばかりか、皇后としてしまいます。

また、ヒュッレム・スルタンの娘の夫となったリュステム=パシャは大宰相の地位に就き、スレイマン1世に讒言を繰り返しました。

スレイマンの子供たちは、あまり幸福な人生を歩めません。1553年、長男で事実上の皇太子だったムスタファ皇子は謀反の罪により処刑。それに先立つ1543年に次男のメフメト皇子が病死、末子のジハンギル皇子はムスタファの死と同じ年である1553年に病死しました。

残ったのはヒュッレム・スルタンの子であるセリム皇子バヤジット皇子のみ。最終的に勝利したのはセリムでした。スレイマン1世の死後、セリム2世が即位します。

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