
18世紀前半のフランス

18世紀前半のフランスは絶対王政のもと、王朝文化が花開いた時代です。ルイ14世の死後、わずか5歳で即位したひ孫のルイ15世は、側近たちの補佐を受けながら成長。33歳になったルイ15世は親政を開始します。また、ルイ15世は多くの愛人をもっていたため、「最愛王」とあだ名をつけられました。
太陽王ルイ14世の治世後半
1643年に4歳で即位したルイ14世の治世は72年にも及びました。ルイ14世の絶頂期は17世紀後半とされます。このころ、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の造営に取り掛かりました。
現在もパリ近郊に残るヴェルサイユ宮殿は、豪壮華麗なものでブルボン王朝の栄華を今に伝える貴重な建物です。ほかにもルイ14世はフォンテーヌブロー宮やルーヴル宮などの離宮を持ち、フランス国内を移動しながら国を統治していました。
1701年、スペイン王位の継承をめぐってスペイン継承戦争を戦います。1713年のユトレヒト条約でルイ14世の孫であるフィリップ5世がスペイン王として承認されましたが、翌年のラシュタット条約で多くの領土や海外植民地を失いました。
度重なる対外戦争と建造物の造営などによる放漫財政でフランス王家は深刻な財政難となります。
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ルイ15世の即位
ルイ14世の子である王太子ルイ(ルイ15世の祖父)は、1711年に亡くなっていました。かわって王太子にたてられたのがブルゴーニュ公ルイ(ルイ15世の父)です。ところが、ブルゴーニュ公ルイも1715年に29歳の若さで急死。その結果、ブルゴーニュ公の子のアンジュー公ルイが王位継承権第一位となりました。
1715年9月1日、太陽王ルイ14世がこの世を去ります。これにより、わずか5歳のルイがブルボン朝第4代国王ルイ15世として即位しました。幼い国王を補佐したのは摂政となったオルレアン公フィリップ2世です。
7歳になったルイ15世はフルーリー司教(後、枢機卿)の手で養育されました。フルーリー司教は穏やかで上品な性格だったといわれます。ルイ15世は師であるフルーリー司教を敬愛しました。
オルレアン公やその跡を継いだブルボン公が宰相の地位を退くと、ルイ15世はフルーリー枢機卿を国政のトップに据えます。
ルイ15世の公妾たち
ルイ15世は曾祖父のルイ14世と異なり、政治に関心を示しませんでした。彼が強い関心を示したのは女性たちだったといわれます。ルイ15世に寵愛された女性たちは「公妾」といわれました。
「公妾」とは、王の公式の愛人ともいうべき存在で、公妾となった女性には宮廷から費用が下賜されました。愛人といっても、決して日陰者の存在ではなく社交界にも出席する存在で、中にはポンパドゥール夫人のように政治に参与した公妾もいます。
ルイ15世の公妾として有名なのは、シャトールー公爵夫人やポンパドゥール夫人、デュ=バリー夫人などですね。公妾は家柄や血筋は重視されません。
重要なのは、如何に国王の寵愛を受けるかという点です。そのため、国王の交代や寵愛が他の女性に移ってしまうことがあると、とたんに力を失ってしまいました。
高い教養と類まれな美貌でルイ15世を虜にしたポンパドゥール夫人

18世紀前半、パリの銀行家の娘として生まれたポンパドゥール夫人は、ブルジョワ階級出身でありながら、貴族の子弟以上の教育を受けて成長します。ルイ15世の公妾となったポンパドゥール夫人は高い教養を持つサロンの女主人として社交界に君臨。けた外れの浪費でロココ美術に大きな影響を与えました。また、外交面でも活躍しオーストリアの女帝マリア=テレジアと同盟を結ぶ「外交革命」を成し遂げます。
ポンパドゥール夫人の生い立ちと結婚
1721年、ポンパドゥール夫人はパリの銀行家フランソワ=ポワソンの娘として誕生しました。本名はジャンヌ=アントワネット=ポワソンといいます。
9歳のころ、占い師から「国王の心を支配する」と宣告されました。9歳にして既に美貌の片鱗を見せていたジャンヌに対し、母の愛人だったともいわれる徴収官ド=トゥルネムが家庭教師をつけて演劇、舞踏、文学、歴史などあらゆる教養を叩きこみます。
1741年、ジャンヌは徴税請負人のシャルル=ギヨーム=ル=ノルマン=デティオルと結婚。当時一流とみなされていたタンサン夫人やジョフラン夫人のサロンに出入りし知性と教養を磨き上げます。また、フランスで盛んになっていた啓蒙思想の第一人者であるヴォルテールとも親交を持ちました。