日本の歴史昭和

要人暗殺により日本の政治変革を試みた「血盟団事件」とは?背景・経緯・影響など元予備校講師がわかりやすく解説

1930年代初頭、日本全国を極度の不景気が襲っていました。世界恐慌に端を発する昭和恐慌と農村恐慌により、都市・農村を問わず、人々は生活に苦しんでいました。茨城県在住の日蓮宗の僧、井上日召は腐敗した政治家や天皇の側近を排除しようと同志を募り、一人一殺を掲げて要人に対するテロを指示します。今回は、井上らが実行に移した血盟団事件の背景・経緯・その後について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

血盟団事件の背景

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血盟団とは、井上らの集団に取り締まり側が名づけた通称でした。彼らはなぜ、要人暗殺という無謀な行為に走ったのでしょうか。そこには、昭和初期の日本がおかれた厳しい経済的背景がありました。日本を苦しめた恐慌や農村不況、腐敗する政党政治や青年将校らによる国家改造運動などについてまとめます。

相次ぐ恐慌と対応の失敗

第一次世界大戦終結後の1920年代、日本は相次ぐ恐慌によって苦しんでいました。1923年に発生した関東大震災が原因の震災恐慌や、震災恐慌時に発行した震災手形の処理に失敗して1927年に起きた金融恐慌などで日本経済は疲弊します。

1930年、民政党の浜口内閣は金解禁政策を行い、貿易を振興することで不景気から脱しようとしました。しかし、1929年に発生した世界恐慌の影響で金解禁を行い金の輸出を認めていた日本から大量の金が流出不景気が深刻化し昭和恐慌を引き起こしてしまいます。

民政党の内閣は景気回復を果たすことが出来ませんでした。結局、政友会の高橋是清蔵相が行った高橋財政により、日本経済は息を吹き返します。高橋財政が効果を発揮するまで、日本全国は不況によって苦しみました。

農村恐慌と農民の困窮

世界恐慌と昭和恐慌によって、日本全国が深刻な不況状態となりました。特に深刻だったのが農村です。世界恐慌により対米輸出の目玉商品だった生糸の輸出が激減。加えて、1930年に米が豊作だったことによる米価が下落しました。

さらに、植民地である台湾や朝鮮からも米が流入したことにより米価の下落に歯止めがかからなくなります。当時の農家にとって米と繭(生糸の原料)は収入の二本柱。その二つの柱がともに機能しなくなったことで農村の経済が崩壊しました。

1931年、今度は一転して東北地方を中心に大凶作に見舞われます。都市部の失業者が帰村していたこととも相まって、農村の不況は深刻化しました。「欠食児童」や女子の「身売り」のニュースが頻繁に報道され、深刻な社会問題と化します。米価が元に戻り、農村経済が落ち着くのは1935年まで待たなければなりません。

政党政治の腐敗

1925年に普通選挙法が公布されると、有権者が一気に増大しました。これにより、政治家たちは以前よりも多くの選挙資金を必要とします。その資金を得るためか、1920年代には「疑獄」事件が相次ぎました。疑獄とは、政治家や政府高官が関与する大掛かりな贈収賄事件のことですね。

1926年、大阪府の松島遊郭を移転させる際におきた松島遊郭疑獄では、与野党の政治家3名が収賄の罪で起訴されました。1929年の五私鉄疑獄では、鉄道大臣が五つの私鉄事業者からわいろを受け取ったとされ、鉄道大臣が逮捕されます。

こうした政治家による贈収賄事件は政党政治への不信をいやがおうにも高めます。その後も1929年の越後鉄道疑獄や、叙勲をめぐる汚職事件京成電車疑獄など汚職事件が相次ぎました。事件がおきるたびに政治不信が高まっていったことは想像に難くありませんね。

青年将校らが企図した国家改造運動

1920年代から連続して発生する不況や、1930年の昭和恐慌は陸海軍の青年将校らに強い危機感を持たせました。昭和恐慌が原因で発生した農村恐慌では、青年将校や兵士達の出身母体である農村が困窮します。

青年将校らは、こうした危機的状況に対し一向に有効な策を打ち出せない政党政治に対し強い失望感と憤りを持ちました。青年将校や彼らと思想を共にする民間人達は、「昭和維新」を合言葉に、天皇親政による政治の一新を目指します。

国家改造運動の主導者は、天皇側近の元老や重臣、政党政治家などを実力で排除することによって昭和維新を達成しようともくろみました。国家改造運動は、日本の政局を政党政治から軍部独裁政権へと転換させる原動力の一つとなります。

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