奈良時代平安時代日本の歴史

悲しみと波乱の遠の都「大宰府」をわかりやすく解説!

現在でも観光客で賑わっている大宰府。今では大宰府天満宮の参拝客がほとんどですが実はこの地域はもともと九州地方の政治の中心地でもあったのです。今回はそんな大宰府について解説していきたいと思います。

そもそも大宰府とは?

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大宰府は天武天皇の時代に現在の福岡県に置かれた九州(西海道)の役所です。大宰府は奈良・平安時代では九州を全て統括する機関として機能しており、遠の都や遠の朝廷などと言われていました。

長官は太宰帥。その下に弐(すけ)、大弐(だいに)、少弐(しょうに)と続いていており、役所の他にも学校や貿易の館など外国との通商や、学問の中心地として機能していました。

しかし、時代が経つと大宰府は左遷の代名詞となり鎌倉時代に入ると消滅することになります。

ちなみに、菅原道真を祀っている太宰府天満宮は「太」という字ですが、役所における大宰府は「大」という文字を使っていました。

大宰府の歴史

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大宰府は九州地方の出先機関だということがわかりましたが、どうして九州には朝廷とは少し違った役所を置くようになったのでしょうか?

そこには朝廷が九州地方に持っていた認識と、外国との付き合いが大きく関連していたのです。

まず最初はどのようにして大宰府が設置されていったのかについて見て行きましょう。

九州の支配の確立と大宰府の元

大宰府が本格的に置かれるようになったのは飛鳥時代の天武天皇の時代でしたが、実はそれ以前にも大宰府につながる組織は九州地方の北部に存在していました。

例えば邪馬台国の一大率はこの大宰府の元となった役職だとも言われていますし、古墳時代にも大宰府に似た役職は置かれていたそうです。

そんな大宰府周辺ですが、この地域が朝廷に目をつけられるようになったのが527年の筑紫国造磐井の乱。この乱は九州地方北部の筑紫国を支配していた磐井が朝鮮半島の新羅と手を組んで起こった反乱だと言われていますが、この反乱の鎮圧にあたった宣化天皇はこの反乱をきっかけとして九州地方の支配を強めるようになっていき、現在の博多付近に那津官家(なのつみやけ)とよばれる天皇の土地が置かれるようになりました。

官家は大和政権における拠点であり、そこ付近が大宰府の領地となっていったとも言われています。

外国とのお付き合い

こうして九州地方北部は朝廷の直轄地となっていきましたが、聖徳太子の時代になりますと戦略上の重要拠点としてだけではなく、外交上でも非常に重要な土地として見られていくようになりました。そのきっかけとなったのが聖徳太子が送った遣隋使。遣隋使によって隋から裴世清とよばれる使節団が那津に宿泊し、ここから朝鮮半島や中国の施設は那津に泊まることが慣例化されていくようになります。

こうして那津官家は外交上の接待の役割を担うようになっていき、その役目は大宰府にも受け継げられていくようになったのでした。

白村江の戦い

こうして那津官家は朝廷の政治になくではならない組織となっていきましたが、この那津官家が大宰府に変貌を遂げる原因の一つとなったのが663年の白村江の戦いでした。

3年前に日本と仲が良かった百済が新羅に滅ぼされてしまい、日本は新羅に遠征を行うのですが、その時の拠点が那津官家でした。しかし、この白村江の戦いは例を見ないほどの惨敗。日本は逆に新羅や後ろ盾についていた唐に攻められるのではないかと戦々恐々とするようになります。

この時の日本の恐れっぷりはものすごいものでこの当時の朝廷の指導者であった天智天皇は九州地方北部や対馬などに防人を置くようになり、海岸線の防衛に当たらせ、さらにその周辺には大堤を築いて水を貯えた水城を造り、また百済の技師の力を使って大野城を築かせていました。

そして海岸線から近い那津官家も攻められた時にあっけなく陥落することを恐れて出来るだけ海岸線から遠いところに移転することが決定しました。それが現在の大宰府だったのです。

 

このような経緯があったからこそ大宰府は律令が定められた時に朝廷とは別の格式が与えられたり日本から外国に対する海外交渉の窓口として、九州全体を治める律令制最大の役所へと変わっていったのでした。

律令制における大宰府

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こうして成立した大宰府でしたが、大宰府はその役割の多さから朝廷とほとんど同じような待遇を受けるようになっていきます。次は大宰府はどのような仕組みであったのかについて見ていきましょう。

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