奈良時代平安時代日本の歴史

悲しみと波乱の遠の都「大宰府」をわかりやすく解説!

大宰府の役割と構成

奈良時代の行政では平城京が置かれている朝廷を中心として機能しているいわゆる中央集権が原則となっていましたが、朝鮮半島が近くにあり、古くから対外交渉に重要な役割を果たしてきた大宰府に関しては平城京の影響を受けることはなく、外交と防衛を主任務とすると共に西海道(現在の九州地方)9国と3島については掾(じょう)以下の人事や四度使(よどのつかい)の監査などの行政・司法を所管しました。

そのため、平城京とは別の権力を確立したことや、権限の大きさから太宰府は「遠の朝廷」とも呼ばれていました。

ちなみに軍事面としては、大宰府に防人が置かれて防人を統括する防人司・主船司を置き、西辺国境の防備を担っていました。外交面では、北九州が古来、中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である、鴻臚館(こうろかん)が那津の沿岸に置かれます。

四等官は長官の大宰帥(だざいのそち)の下に、弐(すけ)監(じょう)典(さかん)がおかれさらにその三つの役職には上下に分かれていました。

ちなみに長官の大宰帥をはじめ大宰府に関連する役職は他より位が高く経済的にもかなり優遇されていたのです。

大宰府の作り

大宰府のつくりは三回にもわたる発掘調査によって初期のころは柱をそのまま地中に埋める堀立柱式であったことが明らかになっていました。

しかし、時代が経つにつれて平安時代に入っていくと柱がすぐに腐るデメリットもあり、礎石をつかって建物を建てるようになっていき、太宰府でも礎石の跡が見られていくようになります。

大宰府は遠の朝廷と呼ばれていたこともあってか、中央政府がある平城京や平安時代と同じく碁盤の目を敷いた条坊制を採用し風水思想に則り築かれました。

大宰府の近くには筑紫観世音寺を建立し東大寺に置かれていた戒壇がここにも置かれていく事になります。ちなみに、戒壇が置かれたのは東大寺と観世音寺と下野国(栃木県)にある下野薬師寺にしか置かれることがありませんでした。

それほど大宰府は朝廷にとって大切な場所であったのです。

左遷の行き先に変貌を遂げる

image by PIXTA / 46797202

こうして朝廷の重要な拠点として発展を遂げていくことになる大宰府でしたが、時が経つと大宰府は朝廷から離れていることを利用して左遷の代表格として貴族の懲罰に使われていく事になりました。

次は左遷先としての大宰府を見ていきたいと思います。

藤原広嗣の乱と廃止

大宰府が最初に左遷先として使われる事になったのが739年に大宰府に左遷された藤原広嗣でした。

藤原広嗣はのちに続く名門の藤原氏出身の貴族でしたが、藤原氏を主導していた藤原四子が亡くなると一時的にその勢力を落としていく事になります。

そんな中で広嗣は聖武天皇に対して政府の重鎮となっていた吉備真備と玄昉の排除を求めて上奏文を送りますが、聖武天皇はこれを国家転覆を企んだ謀反とみなし、藤原広嗣はこれに反抗して大宰府を中心に反乱を起こす事になりました。(藤原広嗣の乱)

単なる反乱で終わったこの藤原広嗣の乱でしたが、大宰府に勤務していた人が反乱を起こしたこともあってその影響で742~745年の間に大宰府は廃止。

その間の大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに筑紫に設置された鎮西府が管轄する事になります。

藤原純友の乱と大宰府

藤原広嗣の乱の後も太宰府は日本の重要な拠点として機能していく事になりますが、この時期から徐々に左遷の代名詞として確立されていきます。例えば菅原道真などは901年の昌泰の変によって流されたことはよく知られていますね。

それでも大宰府は権限を強化していくなど地道に活動を続けていきますが、941年に起こった藤原純友の乱でついに大宰府は戦火に燃える事になります。大宰府は再建はされたもののここから徐々に衰退していく事になりました。

貿易の窓口としての大宰府

大宰府の政治的役割は減少していきますが、大宰府が外国と近い場所にあるということは変わらず、大宰府付近はこれ以降貿易の中心地として栄える事になります。

時が降り1158年。この年桓武平氏出身の平清盛が大宰大弐に就任しました。

平清盛は瀬戸内海の海賊を鎮圧したこともあり、貿易を強化していきたいという思惑があり、当時の宋との貿易を独占するために大宰府の役職に就いたのです。

これによって大宰府の役職は貿易としての役割は日に日に増していきましたが、しかし、政治的な大宰府の利用価値はどんどん低くなっていき、平安時代末期には政治的中心地は大宰府から20キロメートル北の博多へ移ることになります。

 

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