大宰府の衰退
鎌倉時代以降、大宰府の役割はほとんど有名無実化していき、たんなく名誉職となっていきます。次は鎌倉時代以降の大宰府について見ていきましょう。
鎌倉時代以降の大宰府
鎌倉時代に入ると政治の主な実権は幕府が握ることになり、朝廷のほとんどの役職が名誉職となり有名無実のものへと変貌を遂げることになります。大宰府の役職も例外ではなく、幕府が置かれ承久の乱で朝廷が西国の支配権を完全に失ったことによって大宰府の機能はほとんど停止となってしまいました。
しかし、一応名誉職としての大宰府の役職の意義は残っており、鎌倉時代以降は北九州の支配を目論む人たちがこの大宰府の役職をもらうために奮闘することになります
太宰府天満宮の門前町
戦国時代となり、大宰府周辺が戦火に見舞われるとかつて繁栄していた大宰府は農村へとひっそりとした形に変わり果てることになりました。その後大宰府ではこの地に流された菅原道真を祀った大宰府天満宮がメインとなり、大宰府周辺には大宰府天満宮への参拝客で賑わう門前町として発展を遂げることになります。
しかし、江戸時代に入ると名誉職としての大宰府としての役目もほとんど忘れられ、大宰府の遺構もほとんど見られなくなっていました。
左遷の代名詞から明治維新の策源地へ
時代はさらに変わって幕末。この時日本では各地で尊皇派と公武合体派で分裂していましたが、八月十八日の政変によって京を追われてしまった尊皇派の公家である三条実美は長州藩に行ったのちに太宰府に移されます。そして王政復古の大号令で帰京するまでの約3年を太宰府天満宮で過ごしました。
この間に大宰府には西郷隆盛や坂本龍馬など尊皇志士たちが大宰府に訪れのちに太宰府は政府らによって明治維新の策源地と呼ばれました。
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