アーネスト・サトウ初めての来日
若い時は誰でも様々なことに関心を持ち、興味をそそられるもの。アーネスト・サトウの場合はそれが日本という国でした。一冊の本から日本を想像し、どうにも感情が抑えきれなくなった時、それは「日本へ行ってみたい!」という願望に変わったのです。
一冊の本との出会い
アーネスト・サトウとフルネームで表記するのは長々しいため、アーネストとファーストネームで呼ぶことにしますね。
アーネストは1843年、ロンドン市の北東部に生まれました。父デーヴィッドはドイツ系スウェーデン人ですでにイギリスに帰化しており、イギリス人妻マーガレットとの間に男女11名もの子宝に恵まれたそうです。アーネストは三男でしたが、兄弟の中で唯一大学へ進学を果たしました。
ユニヴァーシティ・カレッジに16歳で入学したアーネストは、優秀な成績を収めて2年で卒業しました。しかしその間、一冊の書物との出会いを果たすのです。
それは「中国と日本へのエルギン伯爵の物語」というもので、日米修好通商条約締結の際に同行したローレンス・オリファントが書いたものでした。「幸せな島国」と表現された日本を豪華な挿絵付きで紹介した内容であり、青年アーネストは、まだ見ぬ国日本に対して憧憬にも似た感情を胸に秘めることになりました。
「日本って国は美しくて良い国だなあ。こんな暗くてじめっとしたロンドンなんて飛び出して、いつか行ってみたいな…」
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日本へ赴くチャンスを得たアーネスト
しかし、その思いは意外に早く叶えられる時がやって来ました。、1861年6月、イギリス外務省は中国及び日本での通訳生の募集を行い、ユニヴァーシティ・カレッジにも3名の通訳生を割り当ててきたのでした。
この話を聞いてアーネストが通訳生に希望しないわけがありません。両親を必死で説得し、なんと首席で合格を果たしたのです。こうして日本へ行きたいという彼の願望は実現することになりました。
それと日本へ行きたがった理由がもう一つありました。サトウ家はキリスト教徒とはいってもルーテル派に属し、イギリス本流の国教徒ではありませんでした。そのため宗教的な差別を受けざるを得ない状況にあり、こうしたイギリス社会に対する反発心も手伝って、イギリスから脱出したいと望ませたのではないでしょうか。
そして同年11月、彼はサウザンプトンの港から日本へ向かうことになりました。
まさに東奔西走!日本で飛び回るアーネスト
中国で数ヶ月滞在した後、1862年9月に横浜港から上陸を果たしました。初めて日本の土を踏みしめ、高揚感いっぱいのアーネストは、のちにこう記しています。
「それこそ日本の特徴である輝かしい日々の一日でだった。江戸湾に沿って進んでいくと、世界にこれに勝る景色はないと思われた。」
引用元 アーネスト・サトウ著「A Diplomat in Japan」より
駐日公使館に着任したアーネストは、事務仕事のかたわら日本語の勉強に励みますが、発音から文法まで英語とは何から何まで違うことに苦労します。
最初の通訳としての仕事は、生麦事件の直後にあったイギリスと薩摩の賠償交渉でした。しかしアーネストの日本語能力では難しい日本語に太刀打ちできず、結局は役に立たずに終わってしまいました。
「こんなことでは役に立たないうちにイギリスへ返されてしまう!」
一念発起したアーネストは独学での日本語学習の無理を悟って、実用的な日本語をまず実践することを思いつきました。横浜成仏寺に寄寓していたブラウン宣教師や、のちに「英国策論」を共に翻訳する沼田寅三郎らに実践的な日本語を学んだのです。
ようやく通訳としての仕事を全うできるようになったアーネストは、その後、日本国内を飛び回るかのように東奔西走していきます。
1863年の薩英交渉を皮切りに、翌年8月には四ヶ国連合艦隊の下関遠征への同行、開港交渉のために箱館や兵庫への出張、情報収集目的だった長崎・鹿児島・宇和島・高知への出張など。休む日々などありません。もちろん大阪・京都へ立ち寄った際には将軍並びに天皇への謁見もありました。
その身分も通訳生から昇格して通訳書記官となり、パークス公使などと同行するうちに一流の外交官へと成長していったのです。
幕末明治の激動期を過ごす
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アーネストが通訳としての実績を積み重ね、外交官としての成長が著しかった頃、日本国内は激動の時代を迎えていました。幕末から明治にかけての混乱期に、彼はどのような立場で過ごしていたのか?探っていきましょう。
アーネスト、薩長に接近する
アーネストはすでに生麦事件や薩英戦争などで薩摩藩との関係が深かったですし、ヨーロッパ遊学から帰国した長州藩士の伊藤博文と井上馨を長州へ送り届けたりもしています。ですからアーネストが薩長へ接近することは必然だったといえるでしょう。
また彼が記述した論文の中にも幕府への批判めいた文言も目立つようになりました。【英国策論】の中では幕府体制の在り方を批判しています。「将軍は国のトップに立つ存在ではなく、諸侯の主席に過ぎない。将軍のトップダウン政治ではなく、諸侯連合によって政治を動かしていくべき。」このような考えに深く共鳴したのは西郷隆盛ら、のちに明治維新を支えることになる人々だったのです。
絶えず動き続ける緊迫した情勢の中で、アーネストは徳川慶喜と謁見したり、薩長の要人らと会合を持つなど、情報収集に努めました。
やがて徳川幕府が倒れ明治の世を迎えると、アーネストたち外交団はさっそく明治天皇に謁見していますね。幕府から明治政府へ政権が移っても、アーネストの重要な役割は変わることはありませんでした。
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